KORANIKATARU

子らに語る時々日記

ハロウィーンの夜、西宮北口ゆらり屋で串かつ食べて男呑み。


小雨が降り始めた。
フロントガラスに落ちる水滴が寄り集まって景色の輪郭がおぼろになっていく。
色とりどりの光が滲んで混ざり合う。

忙殺の月末を切り抜けた。
沈み込むようにシートにもたれ、腕をハンドルにぶら下げる。

大阪から兵庫へと差し掛かる地点、上り傾斜の43号線がゆるく左にカーブしていく。
鈴なり列をなす後続車のヘッドライトの位相が少しずつずれ、バックミラーが無数の光で埋め尽くされる。

例年通り、激務の冬が幕を開けた。


10月31日金曜夜、予定のない男子二人、雨のなかを歩いて西宮北口へ向かう。
今夜は串かつ。
ゆらり屋の暖簾をくぐる。

ちょうど2席の空きがあった。
鷲尾先生を奥に並んで腰掛ける。

美味いと呻いて串かつを頬張り、週末癒しのビールで喉を潤す。
男呑みが始まった。


医師が発する情報のうち、「この薬を飲みなさい」という処方より「この薬は飲まなくていい」という判断の方が遥かに価値がある。
飲まずに済む薬なら飲まない方がカラダにいい。

薬が不要であればそれを見極めたうえで余計なことをせず「今日は帰っていいですよ」と言えるのが究極の名医ということになる。

しかし、薬を出せば利幅あるが、薬を出さないとほとんど一銭にもならない。

つまり患者にとって「価値ある情報」を提供すればするほど金銭的には報われない。
医師はこのような逆説的な構図のもとに置かれている。

世には経営上の理由が前面に出過ぎてどんどこどんどこあれもこれもと薬を処方するタイプの医者もあるそうだ。

何にでも当たり外れがあるということである。
来院者目線の有無、医師としての誇りの有無が、患者本位か経営本位かという姿勢を分ける。

要不要を的確に判断し適切な範囲の治療を心掛けるというあり方と、来院者を¥マークで捉え利益の最大化を目論むというあり方とでは、患者側が享受できる恩恵は雲泥の差であろう。

いつか子が父の仕事を理解するときが来る。
そのとき、父の背中が子らにどう映るか。
そこまで考えて日々の診療に誠心誠意取り組んでいく。

医師としての矜持が鷲尾先生のなか、びしっと一本、串のように通っている。
わしお耳鼻咽喉科が開院してから間もなく3年、地域には既にそのことが伝わり浸透している。


夜12時。
雨上がりの夜道を帰途につく。

14年前のちょうど今しがたの時間帯、バルナバ病院の周辺をぐるぐると歩いていた。
当時目にした夜道のシーンが蘇る。
長男が生まれたのはその数時間後、明け方のことであった。

ほどなくして家に到着。
長男はまだ起きている。
リビングのソファに座ってパソコンいじる長男と会話する。

11月1日誕生日、今日はオールブラックス対日本代表の試合を友達と観戦に行くのだという。
ふーんと聴きながら、同時に、あの時の産声を懐かしむ。

14年前と今とでは何もかもが様変わりした。
想像を絶する変化である。
呼ばれて飛び出てジャジャジャジャ~ン。
君の出現は、私の人生においてインパクト絶大の出来事であった。
そのように思いつつ口には出さず他愛ない会話を楽しんだ。