KORANIKATARU

子らに語る時々日記

自分がある、これが最強


仕事の合間、頭を冷やそうと散歩がてらジュンク堂へ向かった。
頭冷やすつもりが、外気は凍てつき、ニット帽なしではとても出歩けない。

日陰に入るとたちまち体温が奪われる。
帽子だけでなく羽織るものも欠かせない。
11月中旬、季節は着実に冬へと向かっている。

エスカレータで店舗に入ると、目の前に友人がいた。
彼には女性の連れがあった。
33期、彼は五指に入る男前である。

状況判断に迷う。
目だけで合図して通りすぎようとしたが、彼から、よおと声をかけてきた。
奥さんと買い物しているということだった。

彼と私は中高の同級生であり、互いの長男が同じ学校に通っている。
そうなれば身内みたいなものである。
二代に渡って学校が同じであれば、下手すりゃ親戚より身近な存在となっていく。


まもなく中学入試。
残された日数はあと60日ほど。

本人であれ親であれ誰であってもヒリヒリしたような緊張感が高まってくる時期である。
見上げるほどによくできる十傑メンバーの彼らですらナーバスになるというではないか。

日頃から合格に足る成績を安定して収めていても、集大成を発揮せねばならない本番の日を安心しきって迎える、なんてことはあり得ない。
残り僅か二ヶ月の期間も抜きつ抜かれつのデッドヒートが繰り広げられていく。

ますます気が張っていくだけとなる。


父として、このような時期には何を伝えるべきなのだろうか。

後悔がないよう最善を尽くすこと、全身から気合の火を噴け、そう言う一方で、こんなことは何でもないことであり、どのような結果が訪れようが、それによって最良の道が拓くだけのことであると、教えなければならないだろう。

目の前に開けた道が神様の思し召し、それが最良であると嬉々歩むことが、男子にとって最強の在り方と言える。
訪れた結果が最良であり、それを最良であると信じることが最強なのである。

ああでもないこうでもないと怨嗟垂れれば、女の腐ったみたいになるだけであり、折角の前途も閉ざされる。


意中であろうが万一そうでなかろうが、これが最良の結果だった、と腹をくくって決めること。

その運命との出合いの時間が間もなく訪れるだけのことである。

最良、と決めることができるのは、他の誰でもない、自分だけである。
「自分がある」というのはそういうことなのである。

本人がそうと決め、家族みんなでそう決める。
それはますます最良の道となる。


先日、ホテルの洗面所で、あれこれ身支度する青年を見かけた。
年格好は大学生くらいだろうか。

油で固めた髪をあっち向かせてこっち向かせてあれこれ神経質にいじっている。
その毛髪が右か左で、一体何がどう変わるのか。

手洗いしつつ、ついつい目をやってしまう。

青年は鏡に見入ったまま外野の視線など気にもならないようだ。

「自分の映り」を微に入り細にわたって気にする男子が哀れに思えてくる。
なんと頼りない、これこそ女の腐ったみたいなというしかない。

洗面所だけでなく往来でも、ここでもどこでも、彼は自らの映りが気になって仕方がないのだろう。

「ちょっといじれば、自分がマシになるかもしれない」、そんなことをまさか本気で信じているのだろうか。

男子など、小手先で何かどうにかなるものではない。

こういうのを「自分がない」という。

「自分がある」のであれば、目くそ鼻くそ鼻毛青のりだけは点検し後はどう映ろうが他人の問題、知ったこっちゃないっ、となるはずなのだ。


君たちが行くその道は君たちだけのとっておきの道である。
他人がとやかくいう筋合いも、それを気にする義理もない。

何があろうと人生讃歌を口ずさみ、とことん愛して楽しもう。
折々出合いがあり、その姿を見て喜ぶ人たちが君たちのかけがえのない援軍となっていく。

髪型なんてどうでもいい、内奥流れる讃歌のメロディが強く弾めばそれで十分なのである。