KORANIKATARU

子らに語る時々日記

そして父になる、を見た。


ゴダイゴの銀河鉄道999がサウナで流れる。
仕事を終えた後の意識の余白に心地よく感傷が染みこんでいく。

「さあ行くんだ、その顔をあげて」という冒頭の歌詞によって歌の世界に引き込まれていく。

「あの人はもう思い出だけど」というフレーズの箇所で決まって少し涙ぐみそうになる。

「あの人」については、身内や恩師など、その折々で色々な人の表情が浮かぶ。

この歌詞を聞けば誰だって心に誰かを思い浮かべることになる。
そして、在りし日の面影は必ず涙を誘うのだ。

今時分であれば健さんのことを思い浮かべる人も多いのではないだろうか。
高倉健は日本の精神性そのものの体現者であった。
そんな人は天皇陛下と高倉健くらいだろう。

昭和が終わってバブルがはじけ、失われた10年や20年と歩調を合わせてつつ、いつの間にか平成の世も26年目を終えようとしている。

時代はまた次の曲がり角へと差し掛かりつつあるのかもしれない。


家内にピックアップしてもらい帰宅する。
グリド甲州という白ワインを飲みながら、ほかほかカーペット敷かれたリビングで「そして父になる」を見る。

出生から6年経過し、子が取り違えられていたと知らされる2つの家族を巡って物語が展開する。

血のつながりか、一緒に過ごした時間か。

この二者択一で主人公は揺れ動くが、どちらもかけがえのないものであり失うことなどできないものであるという結論は、一方の側の父であるリリー・フランキーの眼差を見れば最初の最初から明確に分かりきったことであった。

映画は、エリート街道を突き進み感情的に淡白な主人公が、リリー・フランキー的な情の深い父性を獲得していき、最後には両家が融合していくようなラストシーンで終わる。

リリー・フランキーをはじめ出演者の演技が素晴らしくその点は見応えはあったものの、ストーリーとしては、予定調和的などこまでもおとなしい分かりきったような尻すぼみに終わったようなものであり、たちまちのうち記憶から失われていくような内容であった。

グリド甲州とほかほかカーペットは思い出しても、何の映画を見たのかは思い出せない。
そのような淡い日常の一場面として消えていくことになるだろう。


この題材を、例えばリアリズムを極限まで追求する韓国映画で描けばどうであっただろうか。

人生の綾と不条理を、両家を対にして、これでもかという程にまずは見せつけたであろう。

日本的な描き方では、かたやエリート、だが冷たい、かたや庶民、だが温かい、それに奥さんは両方とも見劣りしない美人。
両家の差に関する踏み込みが浅すぎて、どっちでもまあまあ幸せやん、としか思えないので「取り違えの悲劇性」という本質に肉薄できずじまいで終わっている。

大括りに真実をつけば、
エリート家族は、裕福であり性格も良く奥さんも美人。
一方、貧困家族は、日銭に困窮し心も歪み、家ではいがみ合い、奥さんは野卑で下品、となるはずであり、リアリズムで描くなら、このようなコントラストとなるはずだ。

そして、エリート家に育つデキスギ君は、ピアノも上手で勉強もできる。
貧乏家の母はそれを見ていてはらわたが煮えくり返る。
我が家のウスノロ君ではとても敵わない。
何もかも敵わない。

とうとう貧乏家の母は、精神的に我慢の限界に達し、デキスギ君に灯油をかけて火を放ち瀕死の重傷を負わせる。

そして、実はそのデキスギ君の方こそが血を分けた我が子であったと知ることになるのだ。

韓国映画版においてエリート側の父を演じるのはリリー・フランキーだろう。
リリー・フランキーの父性がそこで発揮され、我が子に手をかけた母尾野真千子が、人類普遍の母性に開眼していく。
タイトルは「そして母になる」だ。

こっちの方こそ、現実的な感情に則していて共感を誘い、学ぶこと大の涙の名作になるような気がする。