KORANIKATARU

子らに語る時々日記

合格発表の光景から中学受験を捉え直す。


耳目触れた話まとめれば要するに、最難関と呼ばれる中学はどこも半端ではない難しさであり、伊達や酔狂、深い考えもなしにうっかり目指してしまえるような対象では決してなく、また、勝算や根拠もないのに受かることを前提にして年端もいかぬ子に感情移入させるようなものでもないということだろう。

確固とした目的意識と相当な覚悟、そして、もし願い叶わなかった場合の心のケアの備えまでしてはじめて、スタートが切れる。
安易おいそれとオススメできるような行程ではない。

そして、そこまで準備し意識高く邁進したところで合格するのは生易しいことではない。
最難関を受けるレベルに至るだけでもたいへんなことであり、そして合格するのはもっとたいへんなことのようである。

これはもういつまでたっても余裕や安心という境地に至ることのない道のりと言える。

互い優劣競い合う大手の塾が、長年培ったノウハウの粋を集め、各小学校を代表するレベルの子どもたちを鍛えあげていく。
全力傾注し後方支援する親が背後に控える。

手塩にかけられた精鋭が本番では一堂に会するのであるから、それはもう間違いなく熾烈過酷な戦いとなる。


志望校が意図するハードルあたりで正規分布はたわんで密集し、合否の境に受験生がひしめき合う。

合格するにしても大抵はギリギリ薄氷またはそれに毛が生えた程度の得点であり、定員オーバーと見込まれた受験生らは合格点に肉薄していようが、日頃の成績がどれだけ優秀であろうが、そこでスパッと切られ不合格と判定される。

この激戦を眼前にしてはどの門もただただ狭いと映るのが皆の実感であろうし、これほど息が詰まるような経験は後にも先にもついぞないと誰もが思うことであろう。

どこの学校が上だとか下だとかといった気楽な部外者の戯言など入り込む余地はない。


そもそも勉強において、その入口で最も重要なことは、世界は多様であり、人には多様な在り方があるのであって、その多様さの中で自らの進むべき道を探索し、そして適性を見出していく、それが勉強でもっとも大切なことであると、諒解させることであろう。

その探索と発見の過程を、まるで観光旅行するかのごとく楽しくワクワク歩めればこんな幸福なことはない。

そのような観点が抜けたまま、いきなり「中学受験」の騒動のなかに放り込んでしまうのであれば、下手すれば子を木っ端微塵にする暴虐でしかなく、そうなれば、家庭は永遠にギクシャクしたまま、一体何のために何をやっているのか、意味不明な事態に陥ってしまいかねない。

中学受験など、多様ななかの一要素でしかなく、しかも、空恐ろしいほどに同質的な世界である。

その同質性に焦点を当てれば、中学受験を経ることで宿ってしまうかもしれない弊害や脆弱にも思い当たるというものであろう。

そこらを全部わきまえた上で、では我が子についてはどうするのがベストなのであろうか、親が考え仮にも結論を出したうえでの中学受験であるべきであろう。


受験の師匠であるカネちゃんがかつて言った。
受験させるかどうか決めるのは、少なくとも本人の適性を判断してからにすべきだろう。

まずは大手塾の公開テストを受けさせる。
これで算数がからっきしなら、受験時期を変更するか目標の方向性を見直すか、または大きく転換し他の道を選択した方がいい。

塾にそそのかされて勉強させても、おそらく成績は伸びないし、むしろ、ちんぷんかんぷんな迷宮のなか、無力感という地獄の苦しみを子に味合わせることになる。
算数がからっきしであるという場合、根を詰めて勉強してもそれが強みに転じることは考え難く、極めて不利な足枷になり続けると見越した方がいい。

そのまま突き進めば時間と金を無駄にしかねない。
金をつぎ込もうが、ケツをたたこうが、どうにもならない場合にはどうにもならない。
その現実をシビアに受け止め、ミラクルを期待するか、受験算数なんて実社会においては無用の長物、ああくだらないと新天地に目を転じるか、これは親の見識の範疇に属することであろう。

ひとつ確かなことは、中学受験は親の見栄や体裁や趣味でやらせるにはあまりに酷であり、そんな心がけで結果伴うようなものでもないということである。

私なら、無駄なコストをかけるくらいなら、いっそ他のことをやらせてあげた方が絶対いいと判断するだろう。
その方が世のため人のため本人のためだ。
大手塾のためにはならないかもしれないが、勉強は近所の塾で、良き師を見つけて、身丈の分だけ、興味わく分だけ、独自にやれば十分だ。


中学受験に興味を持てば、まさに引き寄せの法則、塾から様々な成功譚が聞こえ、ご近所や知人から合格体験談が寄せられてくる。

中身盛られた話、あるいは肝心要を無闇端折った話であろうが何であろうが、身近触れるのは、圧倒的に合格話の方が多くなる。

胸の奥しまい込まれた不本意な話など、そうそうお目にかかることがない。

しかし、冷厳な現実についてはあらかじめ知っておくべきだろう。
それは例えば合格発表の場で一目瞭然となる。

仲間の話を聞き集めれば、名門甲陽の合格発表の光景ほど胸詰まるものはないようだ。

受験者の全員が家族も含めて第一志望として甲陽を目指し、受験者の全てがハイレベルな学力を有して合格圏内にあって、受験者全てが数年がかりで対策に時間をかけ、そして2日間にも渡って難問と格闘する。

この意気込みたるや凄まじい。
しかし、合格するのだと強く確信した者ら全員が通る訳ではないのだ。
明暗が分かれる。
超優秀な300人のうち超優秀なのに100人は、惜敗を喫することになる。

合格発表の掲示の前、現実を受け入れられずその場で崩れ落ちる者、ただただ泣き続ける者、無言のまま立ち尽くす者、無念極まりないという心情がこれほどこぼれ出る場はなく、居合わせる者は言葉を失うしかないという。

このような場面を知った上で、それでも我が子に挑ませようと思うのかどうか、そのような視点も欠かせないことであろう。


第一志望の甲陽がダメであっても、前受の愛光の寮に入る覚悟があれば、まだましであり、数時間前の西大和の発表で合格を得ていれば、まだましである。
また、後日発表される洛南について併願から専願に切り替えて合格できていればまだましだ。

不本意といっても、射程圏内、想定内。
十分に代替となりうる結果と言えるので、それもまたよしと心機一転、間もなく傷も癒えることになる。

しかし、確率論的に考えたとき、誰かは落ちる流れを突き進むことになる。
愛光もダメであり、甲陽もダメで、西大和も洛南もダメだったという結果があり得るということである。

この螺旋に入ると、親まで参る。
仕事は手に付かない。
誰とも口をきく気になれない。
涙が流れ、食事も喉を通らない。

失意の底、土俵際追い込まれたような切迫感拭えぬまま、敗者復活の入試に臨む。

その入試の会場には、一体なぜなのだ、とっくに志望校に受かったはずのママ友が子を連れて機嫌よさ気に試験を受け続けている。

血の気が失せる。
とても笑顔で挨拶などできない。

そしていよいよ、当初の想定内を全て落ち、想定外の滑り止めに進学せざるを得ない、という結果に至る。

費やした月謝の額、送り迎えの労、手作りしたお弁当の数々、それらが浮かんでは消え、無念はなかなか拭えない。
受け入れがたい現実と対峙する時間が流れる。

どこかの学校で追加合格があるのではないか、ないのだろうか、希望的観測と悲観的憶測が交互に行き交い神経がさらに消耗していく。

そうであってもいずれは正気に返って、こんなことは悲劇というには大げさな、そこらありふれた話であり、毎年誰かの身に起こる出来事であって、これも何かの縁、ここから始めればいいだけのこと、という達観に至ることになる。

達観に至るにしても、このプロセスは塗炭の苦しみ伴うものであるに違いなく、やはりあらかじめ腹を括って、どのような結果が訪れようが元気ハツラツ心無傷で過ごせるよう心の備えをしておくべきことであろう。

そして、事ここに至るのであれば、子の心のケアが最重要となる。
そこまでの言葉をさえ準備しておくべきなのである。

それがどうしたどうってことない、と敗北感にまみれた子の傷を癒やし価値観を再構成し、自信を回復させ、視線を再び上げてあげられるのは親だけができることであろう。


もし、我が家に三男坊がいたとすれば、彼にも中学受験をさせるだろう。

何もかも恵まれて、アホウになるほど満ち足りたこの社会にあっては、青年へと変貌していく入口において、タフでハードな通過儀礼があった方が身のためだ。

勉強するのは人間として当たり前の話であり、中学受験するならば、その勉強を素材にした競争を通じ、規律と勤勉を体得し、そして、優劣競い合うなか、強固な自我と武士の情けとも言うべき憐憫の情についても知るに至るであろう。

これほど力強く成長に作用するプロセスはない。
受験勉強に耐えうる素質が三男坊にも備わっていると判断すれば、所詮我が子のこと取り立てて他に取り柄もないであろうから、温かく見守りつつ叱咤激励し、やれるところまでやってみようではないかと取り組ませることになる。

鍵となるのは母親力。母の知性と献身が成否を分かつ。
家内は大変だろうが、きっと賛成することだろう。

そのような空想を巡らせ、我が家においては中学受験はもう終わったのだと回りくどく実感し、ほっと胸をなで下ろす。

今日、建国の日、数日来の寒波は影を潜め、そこかしこ街は暖かな日差しに照らされている。
寒暖が交互に訪れ、間もなく新たな出会いの春が訪れる。