KORANIKATARU

子らに語る時々日記

書類屋が過ごす晴天の土曜日


ここ最近はもっぱらセブンイレブンのお世話になっている。
明け方の寝床で珈琲の香りを思い浮かべ朝食とするお弁当のチョイスに頭を巡らせる。
次第次第、まだ寝ていたいというカラダのだるさより食欲が勝っていく。

週末くらいは電車で行こうとこの日土曜はクルマに乗らず駅に向かった。
駅前のコンビニで新聞を買う。

昨年末、家族ともども忙しくなって二男が好むジュニアエラだけは継続し新聞の宅配をやめた。

以来、気が向いた時だけ駅やコンビニで買い求めるが、かなり活字好きの部類に入るであろう私であっても、その必要性を感じなくなっている。
全く新聞を読まずに過ごすことも多い。

それで気付いたのだが、新聞が目に触れないと、テレビとも遠ざかる。

テレビ欄というのは、気にかけていないようでいて、実は新聞の中で最も人目集める部分であり、事実上、テレビへの導入の役割を果たしている。

だから、テレビ欄がないとテレビを見なくなる。
何を放送しているのか分かりもしないのであれば、そもそも関心の湧くこともない。

新聞をやめたことで、「みだりにテレビを見ない」という我が家の方針が後方からも強化されることになった。


終戦の翌年に公開された黒澤明の「わが青春に悔なし」のなか「顧みて悔いのない生活」と原節子が繰り返し言う。

美貌の原節子が一心に唱える「顧みて悔いのない生活」という言葉は当時の市井の人々にどれだけ強く染み渡ったことであろう。

ありありとした命ある身、芯のある濃密な毎日を送るための第一歩は、テレビを消すことから始まると言っても過言ではないだろう。

有用な機能を備えてはいるものの、日頃は単なるノイズとしてしか作用しない。
価値観や思考を凡庸に染め、時間感覚の弾力に富む個的凹凸を平坦で味気ないものへと退行させる。

慰撫されることが必要なほど孤独な状況にあるのではない限り、テレビというノイズとは距離置くのが賢明であろう。


晴天の土曜、事務所にやってきたのは単なる習慣。
仕事はあらかた済ませてあるので何か急ぎで仕上げるべき用事もない。

行く宛のない老人が散歩コースの公園のベンチに黙って腰掛け時間を過ごすようなものかもしれない。

事務所開設は、私にとっては仕事専念のためのひとり暮らしのスタートのようなものであった。
家とは別の離れで暮らせば、余計なあれやこれやが軽減される。過半をここで過ごす。

メリル・ストリープの「誤診(First Do No Harm)」とウィリアム・ハートの「天国の青い蝶(The Blue Butterfly)」を観る。
ストーリーを知らず不幸な雲行きに滅入りそうになるが、ハッピーエンド。
ほどよいカタルシスを堪能できた。
何であれ、どん底に落とされるよりは、心地よく締めくくってもらえる方がいい。

さて、夕飯は、と思案する。
寿司を食べたいと一瞬思うが、馴染みのカウンターは今日は気詰まり。
次にサイゼリアが浮かぶ。
サイゼリアの店員は世界で一番やさしい。
余計なことは言わないし、頼めばビールでもイカスミパスタでも面倒がらず笑顔で持ってきてくれる。

結局、当たり障りのない結論に至った。
近場でマッサージを受け、風呂に入り、駅前の回転寿司へ向かった。
一皿どれでも135円。

135円並の味を、アサヒスーパードライで流し込む。


生涯を共有できる家族があるからこそ、なんちゃって独居も楽しめる。
もし、本当に孤独な境遇であれば、どれほど寒々しい晴天の土曜であることだろう。

することもなくなって夜、帰宅し寝床に真っ直ぐ向かう。
階下から子らの会話が聞こえてくる。

二男が長男から英語を教わっている。
ああ見えて、この長男、英語の腕前はかなりのものだ。
昔とった杵柄、私は英語を忘れ幾年月。
息子達が父を軽く易易乗り越えていく。

なんとも心頼もしく、彼らの英語の発音に誘われ、私は眠りの淵に降りていった。

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