1
西宮労基署からの帰途、久寿川の浜田温泉に寄る。
駅掲示の看板で見かけ、いつか行こうとタイミングを窺っていた。
久寿川駅で降り北へ向かう。
夕刻、まだ陽は高く肌がひりひりくるほどの暑さである。
が、あら不思議、日陰に入ると風がひんやりとしている。
そう言えば日中は雨が降り続いていた。
雨上がり効果。
路面の気化熱で日陰にはまだ涼が残っているのだった。
日陰沿いを忍者みたいに伝って歩く。
2
お孫さん連れのご老人に先を譲って、下駄箱に靴を入れる。
番台で小さな石鹸を買って、中へと進む。
脱衣場は広々としていて清潔。
空調が気持ちいい。
この風呂屋は当たりだ、と確信する。
手始めに屋外にある天然温泉の露天風呂に入る。
陽が降り注ぐに任せ裸体さらして、湯に寝そべる。
先客らは常連さんのようで互いどうでもいいような世間話を交わしている。
このところは忙しくシャワーで済ませてたよというおっちゃんが気持ち良さ気に周囲同様、湯に深々とカラダを沈めている。
実にいい。
風呂は極楽、世は情け。
市井のくつろぎに溶け込むひととき、ああぼくは幸せだ。
水量たっぷりの水風呂にざんぶと頭までつかって、引き続き屋内の源泉掛け流し。
数種のジャグジーが設えてあって心地いい。
ふくらはぎにかかる水圧の加減が絶妙で、疲労がゆるりゆるりと癒えていく。
至福の15分をそこで過ごし、心身リセット。
職場へと向かう。
3
事務所近くの本屋で小林よしのり氏のマンガ「卑怯者の島」を買う。
子らのお風呂文庫に並べるのに格好であろう。
かつては自分が読む本だけを買っていたが、このところは、子らが読むであろう本まで買うようになった。
本は増え、しかし、家内が知り合いの子持ちママさんらに譲るようなので、溢れかえることはない。
そのように有効活用されるのであれば、本など安いものである。
本が仕上がるプロセスを想像すれば、示される価格は嘘のような安さに感じる。
本はサラを買う。
古本でしか買えない場合を除いては必ず新品を買う。
入手できない本があってやむにやまれずという場合以外、図書館も利用しない。
古雑誌でも古新聞でも構いはしないが、本はサラ。
子らにも教える。
我ら本読み家系において、本は敬うべき存在。
踏んでもならず、またいでもいけない。
そこから汲み尽くすのであるから、本ほど尊いものはない。
サラが手に入るのに、安いからと古本で済ます?
どこの誰の手を経たのか分からないものを手にする?
人がいったん口に入れて出したものをまた口に入れようとするのと同じことではないのか?
不信心に過ぎ、開いた口が塞がらない。
我らにおいてはあってはならないことである。
4
風の噂で散髪屋のおばさんの近況を耳にした。
大阪下町で暮らした幼少の頃、そこで頭を刈ってもらっていた。
小さな頃は二枚刈り、年を経て色気づく小学生になってはスポーツ刈り。
生まれてから中学生になって引っ越すまで、私たち兄弟の頭は、その散髪屋の手によっていたのだった。
おじさん、おばさん、お兄さんという家族三人の散髪屋であった。
私が大学生の頃、これまた風の噂で、そこのお兄さんがガンで亡くなったと聞いた。
40過ぎだったらしい。
たいへんショックなニュースであった。
頭を刈ってもらうのだから、その顔の記憶はどれもこれも間近なものである。
いまもありありとその面影が浮かぶ。
その後、おじさんが亡くなったと聞いていたので、もうその散髪屋は廃業したのだろうと思っていた。
ところが、今回耳にし驚いた。
おばさんお一人で今も散髪屋を切り盛りしているというのだ。
御年、86歳。
常連さんが離れない。
昔ながらのお客さんが、他所へは行かず、通い続けてくれる。
それに応えて、おばさんは今もハサミを手にしカミソリを使って元気に明るく、たったひとりで鋭意営業中なのだ。
息子を亡くし、夫に先立たれ、隠居することなく店を開け続けるその意気に熱いものを感じてしまう。
おばさんにとっては、その散髪屋こそが、家族の場所、ということなのであろうか。
今の楽しみは、月曜日にする一円パチンコだそうだ。
86歳のおばあさんが、毎日仕事を楽しみ、そして、休日を更に楽しむ。
そのおばさんの30年以上も前の優しいお顔が浮かぶ。
頭が下がる。
私達など、小便小僧。
おばさんの近況を聞けば、つべこべなど言ってられない。
頑張ろう。