KORANIKATARU

子らに語る時々日記

東京に行って帰って何かを思い出した2


東京滞在は残すところ一時間強。
食事する場所を探し八重洲の地下街を徘徊する。
このときフォーユーの相良さんから電話がかかってくる。

ひとしきり話し電話を切ったその時、目の前にちょうどいい感じのお店が立ち現われた。
相良さんも気に入るに違いない。
カウンター席の空席にスポットライトが当たっているように見えた。
こっちへおいでよと座席が私に呼びかけている。

流れに従い私は店に吸い込まれるに任せた。
店の名は、栄司。

瓶ビールを頼み、おすすめだと言う4品のうち3品を頼む。
とんてき鉄板焼、もつカレー串、ハラミたたき。

ハラミを一口食べて気に入った。
引き続き瓶ビールを頼み、第二陣。
もつ煮込み煮玉子入。
もつ串焼き五本盛り。

そして焼き鳥など第三陣へと続く。

メニューのなか目に留まるものあれば味見のためとりあえずは注文してみる。
両サイドに座る客からすれば開いた口がふさがらないようなものだろう。
酒屋で一人客が食べる分量ではない。

食の煩悩に骨の髄まで侵されている訳ではなく単なる好奇心探究心。
次回に備えてのリサーチのようなもの。

隣の客がホッピー白を頼めば、どれどれと私も注文する。
後ろの客がホッピー黒を頼めば、それも外せない。

料理のレベルは高く美味しく味見のつもりがほぼ完食となった。
東京から帰るときの経路はこれで決まった。

駅構内の本屋で発売されたばかりの「ヤングブラックジャック9巻」、「有名すぎる文学作品をだいたい10ページくらいの漫画で読む」を買う。
どこにいたって二人の息子のことを忘れることはない。
長男二男へのおみやげはマンガ。
東京以外のどこでも買えるものとなった。


席は窓側。
右横は空席だ。

右斜め前の青年は数学者なのであろうか。
通路側にはみ出たA3の冊子は複雑な数式や図で埋め尽くされている。
クセなのだろうかカラダを左に倒すように傾け、没頭したように一心不乱ペンを走らせている。
新幹線だと集中がピークに達する、そういったくちなのかもしれない。

品川駅で私の隣席は埋まった。
右斜め前の数学青年が時々こちらを振り返るようになった。
青年は身なりがいいだけでなくハンサムだ。

もちろん彼は私を見ているのではない。
私の右横に座る女性にチラリ目をやっているのだ。
女性は気付いているのかいないのか手元の携帯を注視している。

隣の女性が姿勢を変える時、左側ウィンドウにその横顔が時折映る。
相当におキレイな方だと分かる。
歳は20代後半といったところだろうか。

窓に映るその横顔はすぐに私の陰に隠れて消えてなくなる。
私は窓の向こうの私と目を合わせる。
惚けた顔だ。

数学青年は左後ろに腰掛けるその女性が気になって仕方がない。
完璧な黄金比で出来上がった美に心とらわれてしまったというようなことなのだろう。
数学なぞにうつつ抜かしている場合ではない。
一度見て、えっともう一度見直すといった動作をやめることができない。

通路を歩く男性も皆こちらに視線が釘付けとなる。
もちろん私ではなく隣の女性を注視してのことである。

まるで私が美人になったかのよう。
男の安っぽい視線がいちいち鬱陶しい。
中には自信満々、視線に饒舌な言葉を乗せまるで誘いかけてくるかのような男子もあった。

否応なく男子のさんざめきの中に置かれるのであるから美人も楽ではないだろう。

午後10時過ぎ新大阪駅に到着。

彼女は可愛く伸びをした。
全世界が注目する伸びであった。

まことお疲れ様と心から労いたい気持ちとなった。


先日、映画「愛を読むひと」を見て考えさせられた。
いい恋愛を経てくれば豊か満ちるような人生となるのだろうが、その逆であれば、これは一生付き纏うような責苦、重荷となりかねない。

誰か女性を好きになるにせよ付き合うにせよ、それは決してその瞬間瞬間に留まる話ではなく、良きにつけ悪しきにつけ先々まで尾を引くこともあり得るのだとあらかじめ、そろそろ中学生であれば必ず知っておくべきであろう。

マイケルがハンナと知り合い、男女の関係となったとき、マイケルは15歳、ハンナは36歳だった。
マイケルはハンナに操られるまま術中に嵌ったかのようにのめり込んでいく。
この関係が後の人生に払いのけようのない暗い影を落とすことになるなどマイケルは想像もできない。

後年、法学部の学生となったマイケルがナチ事件の裁判を傍聴する。
尋問を受けていたのはハンナだった。
ハンナがマイケルの前から突如姿を消してから8年の月日が経過していた。

ハンナはナチによるユダヤ人殺害の被疑者であった。
かつてハンナは収容所の看守であり、処刑される囚人を選別する役目を担っていた。
加えて死の行進の際に300人のユダヤ人が焼死した事件の責任者とも目されていた。

ハンナが看守をしていた当時、戦線は連合国に押されナチスは辺縁部にある収容所の囚人を強制労働させるためドイツ中心部に移していた。
移動手段は徒歩だった。
囚人は凍てつく冬の道を歩かされた。
速度は駆け足に近かった。
歩けなくなればその場で射殺された。

ある夜、宿泊する教会が空襲を受け火災が起こった。
教会は施錠されたまま、鍵が開けられることはなかった。
中に閉じ込められた囚人はほぼ全員が焼死することになった。

この裁判においてハンナに贖罪の意識は見られない。
判事に主張する。
そうせざるを得なかった。
看守なのだ。
混乱を生じさせる訳にはいかない。
役割を全うする必要があった。
あなたならどうしましたか?


歳月は流れ、マイケルはたまたま書斎で「オデュッセイア」を手にとる。
思い出深い書物だ。
かつて15歳の頃、セックスの手ほどきを受ける前にハンナに本を朗読させられた。
その最初の本が「オデュッセイア」であった。

マイケルはそれを朗読しテープに録音する。
そして収監されているハンナのもとに送る。
マイケルは様々な作品を次から次へと朗読しハンナに送り続ける。
ちょうどマイケルは連れ合いと離婚したばかりでもあった。

一体なぜそうするのか映画において説明はない。
ハンナへの純粋な愛がそうさせたというよりは、ある種の性的な回顧の結果といった方が正確かもしれない。
なにしろ15歳のときにそのように愛し合ったのである。
マイケルにとって朗読が性的なものであっても少しも不思議ではない。

実際、マイケルは録音テープをハンナに送りはするが、ハンナからの手紙に返事を書かない。
テープを送るだけというのは純粋な愛と呼ぶには一方的な行為に過ぎるように思える。
マイケルの脳裏にあるのは美化偶像化された36歳のハンナであって、重い罪を負い老境に差し掛かる今のハンナではないのだろう。
ハンナからの手紙は足元の書類ケースに放り込まれその抽斗は足で閉められる。

はじめての出会いから30年。
ハンナが釈放されることになる。
ハンナは66歳になっている。

ハンナには身寄りがない。
逡巡の挙句、マイケルはハンナの身元引受人になることを決意した。
仕事を紹介し住む部屋を用意する。
マイケルはそもそもが真面目で勤勉な人間なのであった。

しかし、出所の日、書物を踏み台にしハンナは首を吊って自殺してしまう。


序盤からハンナについては謎だらけである。

後に判明するのであるが、ハンナは文盲者であった。
ハンナはそれをひどく恥じていた。

職を転々としてきたのも、ナチスの看守の仕事に携わったのも、マイケルの前から突然姿を消したのも、文盲であることを隠し通すためだった。
また、文盲であることを明らかにすれば「事件の首謀者」ではなかったことが証明でき、量刑も大きく軽減されたはずだが、ハンナにとっては刑罰の軽重よりも文盲であることを秘す方が重大であった。

十分理解し得る。
どれほど不利な立場に置かれようが、自らにとって重大な秘密を守ることの方を優先するというのはあり得ることだろう。

彼女にとって文盲であることが人生最大の暗部であった。
ナチスに加担したことを上回るほどの暗部であった。

しかし転機が訪れた。

服役中、マイケルから送られてきた朗読のテープがきっかけとなってまるで啓示を得たようにハンナは読み書きを学ぼうと思い立つ。
拙いながらも読めるように書けるようになっていく。
自殺した際の独房の書棚を見れば、彼女がやがては書物を自在に読みこなせる域にまで達したということが窺える。

ハンナは気性が荒いと言えるほどもともとが感情豊かな人物であった。
朗読を聞くのが好きで笑ったり涙したりし、教会で子供たちが歌う聖歌に感動し心震わせ泣くこともあった。

「聞く」ことを好むというどちらかと言えば受動的な感性に、「読む」という主体性が備わって彼女の感情に訪れた変化は甚大なものであっただろう。
刑務官の言葉によれば刑期の終盤、「ハンナは以前はきちんとしていたのに、今は何にも構わなくなった」という。

36歳のときハンナが若きマイケルに声を荒げ「謝る?誰も謝る必要なんてない」と一喝するシーンがあるが、当時と比べハンナの内面は著しく様変わりした。
ハンナは自らの罪と向き合うようになったのであろうし、せめてもの償いにと生き残った被害者に対しお金を遺そうとした。

そして長い時間をかけ学び遂には書けるようになっていた。
その結実が贖罪の気持ちをしたためた遺書となった。

10
ハンナがマイケルに落とした影は大きすぎるものであった。
人生を決定付けたといっても過言ではないだろう。

時に男女関係が人生を決定づける。
そもそも私たちの存在自体が男女関係に端を発している。
恐るべし男女関係というべきものだろう。

生きることに付き纏う不運厄難の全部は避けられないにしても、男女関係においては注意するに越したことはなく回避し得るならあまりに深い影を踏まない方がいいように思う。
若ければ手に負えないし先々にまで余波が及ぶこともあり得る。
つまり取り返しがつかない。
人に関わることなので軽んじることはできず、かといって不本意なままかかずらうことになるのは双方にとって切ないことであるに違いない。
もちろんそれが本望と影を共有し我が事として背負う覚悟できる相手であればそれは運命というものでそれこそ念願の祝福されるべき幸福な出会いということになる。

巨大なビリヤード台の上、様々な球がぶつかり合うように出会いというものは生じるのであろうが、その出会いは多い方がいいと言ったものではなく、多ければ影に当たる可能性も増すことになり、できれば数は少なく実は一個で十分であり、たとえ複数あったとしてもそのすべてが爽やか晴れ渡るようなもので、もし別れるという結末に至った場合でも後先、気詰まりなく心に咎めのようなもの一切なく懐かしめるようなものであった方がいい。

可愛く伸びする面影はいつまでも可愛いいまま思い出せる方がよく、その方が幸せで、そうであれば他所で誰かが可愛く伸びをしても全く惑わされることがない、ということである。

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