KORANIKATARU

子らに語る時々日記

言ってもらえるうちが花


急発達した爆弾低気圧の影響により激しい風雨に見舞われる夜となった。
裏庭と接する窓シャッターがまるで襲来を受けたみたいにめった打ちという状態が夜半まで続く。
アルミサッシがグシャグシャに潰されるような騒々しさのなか安眠はできず奇妙な夢をいくつも見ることになった。

明け方クルマで仕事場に向かう。
雨に黒く濡れた路上には風で飛ばされたのであろうゴミが散乱し、ひしゃげた傘が幾本も何かの死体のように無残な姿を晒している。
歩道の自転車は戦火に巻き込まれ逃げ遅れた無辜の民みたいにことごとくなぎ倒されている。
道路真ん中にビールケースが鎮座しているのを見たのは生まれて初めてのことであった。

時折は思い出したようにまた雨が降り始める。

雪の降る街を」を繰り返し流し二号線を東へと進む。
昨日立ち寄った北京飯店で流れていて、心に残りそれで「雪の降る街を」をダウンロードしたのだった。

アキ・カウリスマキ監督の映画「ラヴィ・ド・ボエーム」の情景が蘇る。

主演はマッティ・ペロンパー。
彼が登場するだけで物語にぐっと引きこまれていく。
人が有する愛らしくかつ哀しげな何かがその全身から滲み出てくる。

画面の端に現れただけで、はっと息を呑み見入ってしまう。
ずっと見ていたい、そう思わせる稀有な役者。
だからもう亡くなったしまったというのが寂しくてならない。

この映画のラストシーンは、マッティ・ペロンパーが一人歩くシーンで終わる。
石畳の街路を静かに歩くその姿に、人が背負う哀しみのすべてが凝縮されている。

いつかこのような境地に置かれたとき、このシーンは必ず蘇ることであろうと思われる。
そこで流れた「雪の降る街を」とともに。

この映画を見れば、ともにある者らと過ごす一日のかけがえのなさが沁みるように理解できることとなる。
そして、「雪の降る街を」を耳にする度、それを思い出すことになる。


昨日のこと。
書類作成に勤しんでいるとお手伝いのため家内が事務所に顔を出した。
ちょうどお昼どき、家内がどこかで買ってきたキャベツ焼きを私に分けてくれる。

昼食にしては粗末に過ぎた。

降ったり止んだり、雫が垂れる程度の雨の夕刻。
帰途、野田阪神の北京飯店に足が吸い寄せられてしまう。

ここの焼き餃子はかなりの上物。
思わず店主に、美味いねえ、と声をかけてしまうほど。

瓶ビール、アサヒで、と注文する。
冷えたビールを手酌でコップに注ぎ、自らを労う。

引き続き瓶ビール。
今度はキリンで。

ここで店主が私に聞いてくる。
同じビールなのにアサヒとキリンで味が異なるのか。

最初はのどごしスッキリのアサヒ、その後で苦味とコクのキリンを楽しむのがビール通であると答える。

混ぜたらもっとおいしんじゃない?
と店主はさらに話をかぶせてくるが愛想笑いだけしてスマホに目を落とす。

店主は話し相手を変え他の客と野球談義に興じ始める。
今夜ヤクルトの優勝が決まるらしい。
ビールかけじゃなく、ヤクルトかけ合えばいいんじゃない、との店主の声が聞こえる。

大柄のプロ野球選手が大はしゃぎで小さなヤクルトをかけ合う様子が思い浮かぶ。
ビールを吹き出してしまう。
まんまと笑わされてしまった。

そのとき、「雪の降る街を」が流れ始めた。
ビールを口に運ぶ手を止め、しんみり聞き入る。
この店は流れる曲もいい。


帰宅し家族勢揃いの食卓につく。

餃子を食べてきたなどおくびにも出さない。
ああ、腹減ったと白々しく言いながら、白菜重ねの豚しゃぶをポン酢で平らげていく。

今度、田中内科クリニックでハロウィーンパーティーが行われる。
長男も二男も楽しみにしている会だ。
二つ返事で彼らは出席の意を表明した。

そのまま端末の画面で仲間のページなどを見つつ、芦屋にある阿部レディースクリニックのホームページを開いた。
我らが33期、阿部院長のブログが更新されている。

血液検査で判定できるガン検診について触れられている。
いい時代になったものである。
人間ドックに比べはるかに手軽であり、これは便利だと喜ぶ人がわんさかいるであろう。

阿部レディースクリニックではその検査で胃ガン・肺ガン・大腸ガン・乳ガン・子宮ガン・卵巣ガン・膵臓ガンについて判定できるのだという。
早期発見が難しいガンについても検査でき、それだけでなく遺伝的素因についてまで把握できるというから予防的な見地からも非常に有用な情報が得られることになる。
いやはや、いい時代。

そして、気分は中3のままであっても、いつの間にやらガンについて意識的に考えなければならない年齢に自らが差し掛かっていることに気づく。
実際、我々よりも若く早逝されるケースも珍しくない。

家族を見渡しつつ思う。

死については覚悟があって、いつでも来い悔いはないという構えだが、いざそのときになれば、もう少し生き延びたい、あと少しでいいから時間が欲しいと切に願うことになるのかもしれない。

先々予定し心のなか巡らせていた「未来の思い出」のうちいくつかは何とか実現させたい。
差し迫るような気持ちのなか、やはりそのように願望するのだろう。

決して欲張る訳ではなくとも、未練断ちきれず、せめてあと一つや二つ。
生きてて良かったと心底思えるようなエピソードを大切な人と共有させて欲しい。
そう神様にすがって祈ることになる。

いまある時間の何と貴重なことだろう。
これが失われるとなればタダ事ではない。

日頃から注意深く自らのカラダに向き合い、折にふれて医療の力に頼ることが後で悔いないための最善の方法なのであろう。

家内からビールは一日2本までとの助言を受けた。
言ってもらえるうちが花だと聞き入れてお酒の量も少しは減らすこととしよう。

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