1
ウナギのキモにたっぷりネギを乗せる。
今夜の飲み物は家内が柏原で買ってきた白ワイン。
テレビ番組を全く見ないという家庭の話を家内から聞く。
日本のテレビ番組はおぞましいほど下らないから、それが理由だそうだ。
代わりに、ネットで探した海外のコメディなどを大画面モニターで楽しむという。
おぞましいほど下らないという話を聞けば逆に興味がそそられる。
どれどれと試しにテレビをつけてみた。
小樽の寿司を百貫食べるというバラエティ番組がちょうど放送されている。
小樽と言えば五年前に家族で旅した地である。
懐かしい。
札幌で食べた寿司は良かったが小樽の寿司は期待外れだった。
そのような記憶がある。
最良のネタは獲り合いになって大半が東京をはじめとする大都市に出荷される。
漁場近場の寿司屋に残るのはまさに売れ残り。
おいしい、となる確率は低くなる。
2
テレビで紹介される寿司もそれほどのものではないと分かる。
確かに美味しそうに撮影され出演者もそのように食べるのだが、だいたいの味の程度は見て分かる。
ここらの一流処には到底及ばない。
しかし、食の達人である家内には幾つか興味惹かれるネタがあったようだ。
家内が言う。
五年前の小樽の旅行はリサーチ不足だった。
美味しいものに巡り合えないのであれば、その旅は旅ではない。
それが家内の持論だ。
だから、ほぼすべての旅に反省点が提示される。
先の夏の旅行についても総論NG、だから各論もNGとなる。
いくつか美味しいものもあったはずだが、全体の印象のなか、それら珠玉は掻き消えることになる。
食べるだけが旅ではないと私は思うが、食べることを疎かにしては旅が台無しになるというのが家内の考えだ。
3
旅自体に効能がある。
心身にもたらされる良き作用は計り知れない。
体内に旅センサーが備わっていて長距離の移動を感知すれば、心身が活性化する。
遠くアフリカの地を出立し、旅に明け暮れた人類である。
旅は快と強固に結びついている。
だから旅自体に価値がある。
私はそう思う。
もし夫婦してそのように考えるのであれば、どの旅も幸多く、振り返ってなお楽しいというものであろう。
一つの旅が、何度でも美味しい、という話となる。
4
うちではそこが食い違う。
旅の欠けたるところさえ私は懐かしみ一方家内は反省材料として見逃さない。
相補い合う凸凹夫婦が理想形、そう神様が考えての組み合わせなのであろうか。
二人して満足してしまえば進歩がない。
また、二人して不満たらたらであれば恨み辛みを培養増殖させるようなものであり社会に悪影響を及ぼしかねない。
相違しつつ補完し合うという関係は一筋縄ではいかず破綻の憂き目見る可能性もなくはないけれど、つがいとして進化するうえで強力なエンジンともなり得る両刃の剣。
似たような感性を持ち合わせ語らずとも通じ合う、そういった関係を良きものと思いがちであるが、これはこれで実のところ関係としては終焉したも同然で、終焉なのだから学びはなく何も始まらない。
夫婦というリング。
団欒かと思えば、おおここでそう来るかとファイトが繰り広げられ、そして雨降って地固まる。
そのようなプロレス、いや、プロセスが夫婦と言えるのだろう。
リングに上がってレフリーの注意を向かい合って聞く。
あれはまさに結婚式と同根の儀式と言える。
死が二人を分かつまでのデスマッチ。
ゴングは鳴り続け、リングでともに在ることになる。