KORANIKATARU

子らに語る時々日記

いい兆し


そそくさと夕食を済ませ二男は西宮北口へと出かけて行った。
家内と向き合っての夕飯となる。
二男の学校のママらとの昼食話などを聞きつつ、鍋のなか煮込まれたさわらや野菜に箸をつける。
私がたこやで買ってきたかんぱち、いか、たこの刺身を添えて魚三昧の食事だ。

このところの低糖質弁当のおかげでたちまち体重が3kgも減った。
5日で3kg減なので数ヶ月後私は影も形もなくなることになる。

最近のこと。
一回の食事をサンドイッチなどの単食で済ませれば体重は減ると見込んで試みたが結果は出なかった。
ムキになればなるほど逆効果となっていった。
ダイエットについては元の木阿弥を繰り返す。
これが私の半生であった。

そこで家内に助力を頼み、これまでで唯一効果のあった糖質制限に原点回帰することにしたのだった。
前回の試みと異なる点は、制限を徹底するのではなく、まあ多少のことには目をつむるというユル制限であるところだ。

ビールを糖質カットのものに変え、朝は卵や肉などの弁当、昼は豆房で惣菜を買い、夜は家で家内がこさえたものを口にする。
カラダが軽くなるだけでなく、そのような食事に慣れると静か心まで澄んで落ち着くかのようだ。
がっつくような食の煩悩を手懐けることは案外易しいことなのかもしれない。
長年に渡って染み付いた愉悦への渇望が蘇らぬ程度に糖質制限を心掛ければ制御は可能に思える。

以前と比較し仕事の負荷もずいぶんと軽減されている。
当時は糖質を完膚なきほど遮断しつつ同時に激忙であった。
梅雨時の長雨のもと傘を差し延々と歩き、思わず目が回ってベンチに腰掛けた。
生まれてこの方ヘタってベンチに腰を降ろすなど皆無であった。
これはダメだと、翌日には寿司を腹いっぱい食べ糖質制限を解除したのだった。


テレビをつけると映画「蜘蛛女のキス」が放映されていた。
ちょうどストーリーは終盤に入っている。
残り20分ほど名作を堪能する。

かつて高校生のときにビデオで一度見たことがあった。
弟が買ってきた岸田秀の唯幻論を読んで、この世は幻想だ、すべては虚しいと、上の空な時間を過ごすようになった青春の頃のことである。
その頃の私は何かを探し求めるみたいに意味ありげな映画を見るようになり、本を読むようになっていた。

「蜘蛛女のキス」を見て30年ほど経過するが時折その光景を思い浮かべてきた。
世界あたれば「蜘蛛女のキス」を心に留め折りに触れそのシーンについて考えるという人は結構な数いるに違いない。

忘れもしないラストシーンに差し掛かる。
30年前、私はそこに物悲しい切なさだけを見た。

主人公モリーナの愛はバレンティンに届かなかった。
バレンティンの心には他の女性がいる。
そのバレンティンにしても捕われの身であり拷問に晒され苦しみだけの現実に苛まれている。
唯一、意識を失ったときの空想のなかだけがバレンティンの逃げ場だ。

名画は時を経て違った風に心に響く。
昨晩見て、私は若き日とは全く異なる印象を持った。

モリーナはバレンティンを愛し、その愛は成就した。
モリーナの愛によって、バレンティンのなかには確かに美しいものが宿ったのだった。
バレンティンは苦悶のなかにあって、しかし、心の奥底では幸福だ。
モリーナが、それを残してくれた。

このあまりに深いラストシーンは更に今後30年私のなか褪せることがないだろう。

f:id:otatakamori:20151030083324j:plain