KORANIKATARU

子らに語る時々日記

もはやツジ君にだって予想できないだろう


連日走って体調がいい。
あくまで軽い走りではあるが目に見えて効果があると言えるだろう。

食事はおいしくカラダ軽やか、何より気分がすこぶるいい。

まもなく続けて三週間となる。
面倒だと思う気持ちもないではないが、爽快感があって伴走者がする話を聞くのがまた面白く、今日も明日も走るという方向に針路が定まる。

走った後、炭酸水で水分補給するものだから、このところビールが欲しくなくなった。
日が落ちればビールという長年の習慣が意外なことをきっかけとして変わったことになる。

風呂を上がって爽やかな気分のまま夕飯をいただく。
お酒は神の河か角瓶。
決めた分量だけソーダ割りで飲む。

この夜もまた食事が凝っていた。
塩麹を使ったということであったが、詳しいことは料理に不案内なわたしには分からない。

語られる薀蓄をフムフムと聞き流しつつ、滋味掬すべき器に盛られた小品に箸をつけていく。

わたしはうまいうまいとだけ言い、うまいという以外の言葉を知らぬ童子のように、またさらにうまいうまいだけ言葉を継いでいく。
明日の予定はと聞かれても何を聞かれても、うまいねうまいねとだけわたしは言葉を発したことであろう。


体調がよく寝起きもいい。
早朝に目が覚め、起き上がることに何らの逡巡も生じない。

朝四時台、FM神戸のメモリーズ&ディスカバリーズを聴きながら事務所へ向けてクルマを走らせる。

早起きは三文の得。
出だしが早ければ新聞をめくる余裕まで生まれることになる。

ある頃、新聞に目を通す暇がなくなった。
私だけでなく家族皆が忙しく、新聞は読まれることなく単に回収されるための廃品として高く積み重ねられていく一方であった。
チラシにまんまと乗せられて、といった受け身な吟味もしないのでチラシもまるごと含めて不要品の量はかなりの嵩となった。

これで毎月四千円、年に五万は、無駄な出費にもほどがあっていかにも勿体ない。

長年の習慣ではあったが、新聞の購読をやめることにしたのだった。
以後はコンビニなど通りすがりの際、気が向けば買うというだけとなった。


やや疎遠となっていた新聞であったが、このところは朝に読む時間が取れるようになってきた。
読むといっても、ほとんど目を留めることなくざっと眺め見渡すだけのこと。
たまに一つか二つ、関心ひかれる記事があればめっけもの、それくらいのスタンスで紙面をめくっていく。

印象に残る箇所があれば、ツイッターで触れて友人らに知らせる。

そのように新聞と寄りを戻しつつあった今日此の頃。
朝日新聞が山梨で夕刊発行を終了したとのニュースが目に入る。
佐賀、大分に次いで三県目の取りやめだという。

その昔、大学生の頃のこと。
いまや商社マンとして世界を股にかけるツジ君が、ずれた眼鏡の位置を中指で直しながら言った。
新聞はなくなるよ、あのサイズと分量は不要になる。

その言葉をふと思い出す。

ツジ君によれば、皆がハンディな情報端末を持ち歩き、そこになんでも情報が詰まっていて、それらが世界規模のネットワークでつながるというのだった。

自動車が空を飛んだり、人間と区別できないようなロボットが街を闊歩するといった絵空事もどきの未来図に近いような話であり、ドラえもんの四次元ポケットのなかにも見当たらないほどの奇想天外さと言うしかない話であったが、いまや現実となった。

わたしはここ最近、一万キロ以上離れた地にいる息子と動画などの情報をいとも気楽にやりとりしている。
ちょっと以前であれば、そんなことはあり得ないような話であったのだ。


時代の変化は凄まじい。
数々生じる変化がその変化率を更に増しながら、自動増殖するみたいに変化の振幅と波紋を巨大化させていく。

今日存在するものはよほどのことがない限り明日もあるに違いなく、数日先もあるはずで、数ヶ月先にもあるだろうが、数年先にはあるのかどうか皆目見当もつかない。

先行き予測の蓋然性を成り立たせる時間幅がどんどん短くなっていく。

次はどうなるのか。
もはやツジ君にだって分からないだろう。

とりあえず、大阪で飲もう、泊まりにくればいい、人数と日数は不問さ。

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