KORANIKATARU

子らに語る時々日記

結婚というものの手の平の上

一人暮らしは一日で飽きた。
二日目に入ると退屈で仕方ない。
気紛らわせに洗濯や洗い物などしてみるが心スカスカ、手応えを感じない。
家が空っぽであると心まで空虚になってしまうようだ。

やはりわたしは一人暮らしには向いてない。
だから当然、単身赴任など耐え難い。

子らが育つ時間を共有してこその家族であろう。
子どもラバーの父としてその時間を不在にするなど天変地異にでも巻き込まれない限りとうてい考えられないことである。

その日、その時の様子を直に目にして、それが養分のような働きをしてこの活力が保たれている。
途切れれば、青息吐息となるのも無理はない。

家族を得るまでの前史時代については記憶薄れゆくばかりであるが、張り合いなくしょんぼりと過ごしていたのではないだろうか。

まもなくそれぞれがみやげ話を携えて帰ってくる。
あと数日のこと。
ほんのすこしの辛抱だ。

一人暮らし早二日目にして音を上げて、家族の帰還を乞い願う。
その体たらくのまま、閉店間際の商店街で焼鳥を買い孤食する。

せめて元気の出る映画でも見ようとこの夜もインド映画を晩酌の相手に選ぶことにした。
タイトルは「チェンナイ・エクスプレス」。
大ヒット作だ。

南インドの空気が画面から流れ込んできてかぐわしい。

ハラハラドキドキを経てもちろん映画はハッピーエンド。
楽しくなければ映画ではない。
それがインド映画のいいところ。

ヒーローは降りかかる困難をユーモアたっぷりに払いのけ乗り越え、ヒロインと結ばれる。
ヒロインはヒーローの愛を得て、笑顔と涙のグッドエンディング、すなわち晴れてめでたしハッピーウェディングを誓い合う。

結婚がインド映画の主柱であって揺らがない。
そうであってこそ、多くの民の共感を得る。
もし斜に構えて結婚を皮肉ればインド十二億の民がそっぽ向く。

お手軽ありきたりに物語のテーマとなって、しかしその実、あまりにも人類と不即不離な制度のようでもあって、とても簡単には語れない。

少なくともこの制度のもと、わたしには父や母と呼ぶ存在があり、妻があって、子らがいる。
人生を成すうちあまりに巨大な必須要素であって、ないと仮定することすらできない所与のものと言うしかない。

つまりどうやら、わたしは結婚というものの手の平の上にある。
だからなるほど、この安心感。
手の平の上に乗る感じがあって、安らぎを得ていると言えるのかもしれない。

そうイメージすれば、ハッピーエンドに共通する構造が見えてくるような気がしないでもない。

そしてはたして、君たちもいつか誰かと結婚することになる。
相手さえ誤らなければおそらくきっと大丈夫。

経験則に従えば、十人いれば三人とは馬が合う。
豪腕投手に向き合うみたいに、ぎりぎりボールという際どい変化球に焦って手を出せば、かすっても凡打で終わる。
はたまた狙い玉を絞りすぎれば、バット振る機会さえ失われる。

好球は、ゆっくりスロー、それくらいのちょうどいい感じで、ど真ん中に現れる。
そして好球は世にあふれている、なにしろ十人いればそのうち三人とはうまくいく計算だ。
それを捉えて逃さない。

インド映画でも、ヒロインが登場すれば音楽かかって映像がスローモーションになる。
おおらか構えていても、見逃すはずがない。

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