KORANIKATARU

子らに語る時々日記

中年だって、いざ行かん

近くに花屋がオープンしたので花を買って帰る。
小一時間走ってから晩酌を始める。

肴はなすの天ぷら、アジのフライ。
素材がよく、しかも揚げたて、食が進む。

前に座るは二男。
新しいクラスになったばかりなので話題が尽きず、映画の話も加われば、二軒目へと誘いたくなってくる。

まもなく長男が帰ってきた。
二男と入れ替わり、今度は彼が前に座って食事を始める。
わたしはサラダをつまみに引き続き酔いの浜辺でちゃぷちゃぷ遊ぶ。

新しい学年となって教師陣が更に強力になった。
授業がとても分かり易い。
相変わらず行事も盛りだくさん。
学校は充実し、彼の話は止むことがない。

どちらも身体測定があってその結果を聞いたのであったがもはや肉薄。
まもなく背丈でわたしを追い越すことになる。

それがとても嬉しくお酒が美味しい。

ここ数日、考えるようになった。
わたしが彼らの年の頃であったとすれば、将来の進路をどう捉えたであろうか。
いまこの歳で有する情報量をもってあの当時に戻ったとして、何に憧れ何を目指しただろう。

四十代の通過点として、いまの自分のような有り様であっても構わない。
世間的にはちっぽけではあるけれど、わたしにすればこれでも十分、畏れ多くも上出来すぎると言えるだろう。

しかし、もしやり直すことができるとすれば絶対に同じ道順は選ばない。

振り返れば肝を冷やす道行きであった。
それは道と呼べる代物ですらなく、また遠回りに過ぎた。

遠回りといっても糧や肥やしを多々得たような意義ある道草といったようなものではなく、将来の選択肢を先細りさせ、そうでありたいと望む理想の実現可能性を著しく減殺させるような袋小路に入り込んでいっただけ、要約すればそうなる。

自身の中の何を核にし世を渡っていくか。
そのような最低限のイメージもなく流れのなか受け身に脱力していったようなものであった。
強いこだわりのようなものが何もないので展望は描かれず努力も生じない。

何であれ核として据えるべき適性について確信を持ち、それを強くし高めていくのだという思いのようなものがなければ、パッションやプライドが道を照らすことはなく、すべては薄らぼんやりとした袋小路と化し、だから当然ガッツもエネルギーも湧いてこないということになる。

ここが一番大事なことなのだろう。
核が定まれば、それを表現する媒体としてまとう職は自ずと立ち現れてくるに違いない。
血沸き肉踊るまではいかないにしても、内と外が呼応し、いっちょやってやろうという気概のようなものが充溢してくるのではないだろうか。

意欲だけはいくらお金を積んでも買うこと叶わない、つまり意欲は至高の価値の部類に属する。
だからそれが職と直結するならばこれほど豊かな人生はないということになる。

子があって幸いであった。
一度画面から消えた脇役が子らに伴われ、舞い戻るようなもの。

何も子だけが進路を思い描くのではない。
わたし自身についても、常にいまが起点となって未来へと道が拓かれていく。
中年だって、いざ行かん、である。

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