KORANIKATARU

子らに語る時々日記

一寸先は闇の綱渡り

子らが小学校の先生の話をしていて顔が浮かんで懐かしい。

わたしたちとは異なる価値観の教師に対峙しなければならず、思えばいろいろなやりとりがあった。
兄弟揃って関門に行手塞がれそうになったと言っても過言ではないだろう。

教師の主張を要約すれば、中学受験が諸悪の根源。
地域の子どもコミュニティを分断し、偏差値主義で人を序列化する。
嵌まり込めば人間性は損なわれ幸せからはほど遠く、長じては孤独で寂しい末路を迎える。
過熱する中学受験こそが末世日本を象徴している。

教育に関しては百家争鳴、いろいろな意見があってもいいが、そのような極論を真顔でもって子らに説いていた。

一理はあると言えるだろう。
中学受験によって生じる弊害はあるに違いない。

愚直に過剰適応した親がそこに幸ありガンダーラと血眼になって子を巻き込んでいく姿は正気の沙汰とは思えないし、志望校を連呼させ拳突き上げる光景は何か不気味な新興宗教のようであり、単なる点数の輪切りの結果を勝利だ栄冠だと歓喜し涙する様はある種のブラックコメディのようでもある。

確かに一部を取り上げれば、バカバカしくあさましい。

だが、多くは狂気とはほど遠く、静か淡々と良し悪しを思案し単なる一選択肢として中学受験に臨んでいるのではないだろうか。

そもそも中学など単なる通り道の一つであり、そこを通過したからといって幸に到達するわけがない。
そんなことは誰だってわきまえていることだろう。
人生の綾はもっと複雑であり、たかが中学くらいで幸福になると確信するなど単細胞にもほどがあり虫の良すぎる話だろう。

しかし、一方で世の実相はますます世知辛い。
いまや日本人こぞって、貧困のうえに張り渡された綱を伝って歩いているようなもの。

そのような社会情勢を眼前にすれば、少しでも子の足しになるような選択をしようと思うのが親心というものであろう。

学の修得は、子が幸福になるための十分条件とは言えずとも必要条件ではあるに違いない。
知の価値は世界共通で普遍なものであり、あって邪魔になることはない。

例えば実際、わたしたちは日本人であるからのほほんと日本で暮らせるが、外国人が永住しようとすればハードルは高く、一目に値する学や技能を備えた高度人材である必要がある。

そのハードルが何か示唆的なことのように思える。
何かを分け隔てる暗黙の思想がそこに凝縮されている。

先行き不透明で不可視な未来において、従属する側ではなく例えば「高度人材」として主体的な立場を得られるなら、その立場は幸福への足がかりとなるかもしれない。

そこに至るためにはどうすればいいのだろうか。
特に秀でたものなく財もなく、となれば、学を志すより他はない、という差し当たっての結論にすがるしかない。
そして、自らが主体性を保て、かつ多様に特化した仲間にも恵まれれば補完がなされてさらに心強い。

そうなったときに、中学受験がひとつの近道、ましな道であるように見える。
その道が正しいのかどうか何の保証もなく、思ったのと正反対という結果に至る場合もあるだろう。
しかし、ダメならダメでそのときに考えればよく、良さそうな道があるなら躊躇せず時期を逸しないほうがいい、そう思えば中学受験を選択することになる。

どのような選択を為そうが、一寸先は闇の綱渡り。
正解はなく、ムキになって足掻いたところで不確実なことだけが確実だ。

ただそうであっても、良い目が出ることを思って淡々と賽を投げ続けるしかない。
そこにこもった願いが元で何かが傷ついたり歪んだりするようなことは世の常、人生の理のようなものであり、たとえそうなったとしても、次の場面が訪れる。
それが悪だと後ろを向いている場合ではなく、いち早く態勢を立て直し前を向いてまた賽を投げねばならない。
誰もが明日を思って賽を投げる。
他人がつべこべ口を差し挟むようなことではないだろう。