KORANIKATARU

子らに語る時々日記

自由でいられることのお湯加減

毎週毎週、数々の難所をくぐり抜けようやく到達する金曜日であるが、連休明けの金曜となるとあまりに呆気なく充実感薄い。
それでも金曜が纏う甘美さに誘われ、家内と飲むワインを選び、本屋に寄って週末手にする本を物色する。

自分用の本をいくつか選び、子ども用にも見繕う。
ちくま文庫の「バカ田大学なのだ」を手に取る。
いまや古典とも言うべき名作だ、子らも天才バカボンには必ず目を通しておくべきだろう。
発売されたばかりの亜人8巻がレジ横に陳列されていて、それもついでに買い求めた。

小雨降る夕刻、クルマ走らせ家へと向かう。
傘の手放せない湿度高い一日であった。
街はそこかしこGWが終わるという辛気臭さに満ちていたように思えた。
夏までしばらく祝日はお預けとなる。

HDD搭載の曲を車内で流す。
郷ひろみの「林檎殺人事件」がやけに新鮮に聞こえてヘビロテする。
耳を澄ませば歌詞がいい。
言葉のチョイスがセンスよく聴き応えあって小気味いい。

一足先にテーブルにつき、子らの帰宅を待ちながら晩酌を始める。
子のリクエストで今夜はタコ焼きをせんべいに挟んで食べるタコせんともんじゃ焼きであった。
白ワインにこれほど合う料理はないだろう。

門の開く音がしたので音楽をセットした。
もちろん林檎殺人事件も今夜のナンバーに入れてある。

二男が戻り、引き続いて長男が戻る。
下町風の夕飯を楽しみつつ、きょうの出来事について話し合う。

わたしは先日風呂屋で見かけた光景について子に話す。

お湯場で若い衆が親方さんの背中を流していた。
単に洗うだけでなく、肩や腕を揉みマッサージを兼ねている。
平身低頭、親方さんに尽くすが、親方さんはぶっきらぼうだ。
きつい言葉で指図し、時に若者を罵倒する。

学びを得る過程において主従関係が生成することは実際にあることである。
しかし、在り方として、そのような力関係のもとにしか居場所がないということになってしまうとこれはつらい。

たとえばわたしは足をのばして湯につかり、そのような光景を眺めるだけであり、眼前に働く力学に属することなく全く自由である。
背を流せ、もっと力を入れろ、と言われることはない。

自由であるということが実は結構得難い領域であると知っておかねばならない。

うっかりしていると、せっかく自由なのに、そのような構造のなかに身を置くことになりかねない。
そうなると蜘蛛の巣にかかったようなもの。
理屈を超えた強制力が作用して相当に苦しい立場を余儀なくされることになる。

そこで耐えることが自らの道であるなら耐えるしかないが、そうでなければ単に不条理なことである。
そして世は思った以上にこういった不条理に満ちている。

隣国では党大会が開催され、皆がこぞって最敬礼し若き国家指導者を迎え全力の拍手で彼を称えた。
ニュースで伝えられるその光景を見て部外者であるわれわれは薄気味悪いと苦笑し済ませられるが、その場にいる者らの心中は察するに余りある。
逃れようのない力学に雁字搦めとされる現実はどれほど重く苦しいことであろう。

自由の国日本であるが、実は近似の蜘蛛の巣がいたるところに張り巡らされている。
ミニ国家指導者は星の数ほど、たとえば電車の中にだって、立ち食いそば屋にだってその姿を見つけられるほど日常にありふれている。

万一にも配下に組み敷かれたら これでいいのだ、とはとても言えない。
何事であれタダでは手に入らない。
どれほどの代償を払おうが死守したいものの筆頭に来るのが自由であるだろう。

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