KORANIKATARU

子らに語る時々日記

ドイツの四半世紀を映画を通じて3時間強で俯瞰する

仕事で遅くなったため一人回転寿司で食事を済ませ帰宅し、寝支度整え夜9時には晴れて自由の身となった。
借りてあったDVDのなかから無作為に選んで睡魔のお迎えを待ちつつ二本立て続けに見た。
ひとつが『ヒトラー暗殺、13分の誤算』、そしてもうひとつが『顔のないヒトラーたち』。

前者ではヒトラー礼賛ムードが強まっていく時期のドイツが描かれ、後者ではナチスが犯した過去の非道にドイツ人自身が目を向けていく過程が描かれる。
いわばビフォー・ヒトラーとアフター・ヒトラー。
ヒトラーを軸にして両者は時間的位相を対にする映画であった。

『ヒトラー暗殺、13分の誤算』にて描かれる世界において、ヒトラーが招き寄せる未来がどんなものであるのか予見する者はほとんどいない。
ポーランドを打ち破った興奮の渦のなか、国中が英仏でさえものともしないといった高揚感に包まれている。

とてもではないが論を尽くして懸念差し挟めるような雰囲気ではない。
ヒトラーのなか胚胎する破滅的な危険性を誰かが察知しても為す術がない。

だから主人公は暗殺を企てた。
しかし間一髪のところで事を果たせず、となる。

そして、戦後ドイツの様子が『顔のないヒトラーたち』では描かれる。
当時のドイツにおいては、ナチスの残党が少なからず社会のなか生き延びており、暗黙裡に戦時中の事柄に関してはいわば忘却政策が行われ、歴史認識が曖昧のまま放置されていた。

一人の検察官がアウシュビッツで行われた残虐非道について知ったことがきっかけとなり、その曖昧の靄に風穴が開くことになる。
50年代終盤のことだった。
生き残った元収容者の聴取が徹底的に行われ、その証言をもとに、アウシュビッツにて虐殺を行った者、加担した者らが訴追された。

それらの裁判を通じてアウシュビッツで何が行われていたのかが詳らかとなっていく。
ドイツ人は自国の歴史の汚点を直視せざるを得なくなった。
1963年、ようやくここにいたって、ナチス犯罪が白日のもととなり、それを厳しく取り締まろうとの機運が醸成された。

1939年から始まるドイツの四半世紀を、映画を通じて3時間強で俯瞰したようなものであった。

後から振り返れば、時間の境界線にヒトラーという人物があったことがくっきり鮮明に判別できる。
彼が落とした影は深すぎて、誰がどう見てもその境界は明らかだ。

天変地異がごとくの悲惨な結末がもたらされたにもかかわらず、しかしその予見は果たせなかった。
多くのドイツ人は戦時中もナチス犯罪について知らなかったという。
ただ、その道筋をたどれば、ドイツ人が総意をもって思いを仮託したシンボル的存在がヒトラーであったことは厳然たる事実であって否めない。

そこに落とされた影は、ヒトラー一個の妄想が投影されたというだけではなく、当時のドイツ人全体の影と不可分であると捉えるべきなのだろう。

決して他人事ではない。
わたしだって誰だって、当時その場にいれば、嬉々として真っ黒な影を露わとしていかもしれない。
そう思うと、心底震える。