KORANIKATARU

子らに語る時々日記

ファンタジスタの動きから生産性の何たるかを知る

この一週間で暮らしのリズムがやや乱れた。
今日日曜をその回復に充てる。

いつもどおり早朝に起き事務所に入る。

散らかった書類や文具を定位置に戻すなどして身の回りを片付ける。
伸び放題になった髪をきれいに整えるようなものであってこれだけでも清々しい。

それでもまだ頭の中の散らかりは手付かずのままである。

こんなときは走るに限る。
一時間強、一定のペースで真っすぐな道をひた走る。

何も考えず走れば自己の内面への回路が開かれる。

脂肪はともかく少なくとも余念は燃焼され頭の中に平穏が戻ってくる。
あとはゆっくり湯につかって家内の手料理を食べぐっすり眠るだけ。

鉢植えを手入れするようなこまめさが、自己回復においても不可欠と言えるだろう。
こうしてやっとリズムが整い、体力が満ち心は静謐、仕事の生産性が確保される。

放置すればエントロピーが増大し続け、コンディションはボロボロとなって手の施しようがなくなっていく。
シュートを放つ以前に前すら向けない体たらくとなる。
見ていて痛ましい、無能なフォワードのようなものに成り果てる。

生産性と先ほど言ったが、一昔前とはニュアンスが異なる。
単純労働で3個仕上げるより5個仕上げる方が生産性が高い、といった皮相的な意味合いで用いられることはこの先ますます少なくなっていくだろう。

もっと奥深く、決定的な能力を指し示す用語となりつつある。

例えば、ファンタジスタと呼ばれる選手の動きなどは生産性そのものと言えるかもしれない。
スピードがあって、キレがあって、押しがあって引きがあって、意外性も含めて打開的でありかつ統率的で、まるで場を支配するような豊穣な動きを見せて得点をあげる。

その対局の動きをイメージすれば、非生産についても話が早い。
硬直的で平板で模倣的で没個性、凡庸で冗長、面白みに欠け、どこにも魅力の見出しようがない。

非生産の同義語としては生欠伸という語がしっくりくるだろう。
馬鹿と生欠伸は使いよう、と言われることからも察しがつくように無用の長物と紙一重とも言える存在である。

だから、手塩にかけられた真面目な生欠伸ほど痛ましいものはない。

つまり、学生時代にいくら学業でずば抜けようが、血眼になって勉強に精を出そうが、後者の有り様にとどまっていればやがて悲しきといった不本意な尻すぼみを余儀なくされる。

意識的であろうが結果的であろうが、自らの造形においては生産性の基礎となる能力の獲得が必需となる。
学習指導要領にそれに結びつく解などあるはずがないので、定型的な勉強ばかりに過剰適応するのは、この先の未来においては愚かしいことと言えるかもしれない。

裏返せば、多少は勉強をさぼっても、代替する何かがあるのであれば、それで十分やっていけるということだ。
むしろ、お勉強の能力など最低限のベースの話に過ぎず、だから現場では極小の機能しか果たさない。
お勉強ができるより、誰かと意気投合して話したり、信頼関係を築いたり、バラバラな意見をまとめたり、説得力あるこたえを分かりやすく説明できたり、耳目集めるアウトプットが継続的に為せたり、敵対者と渡り合う愛嬌と度胸があったりする方がはるかに役に立つ。

コンディションを整え、職業者は月曜日に臨む。
生産性について自らに言い聞かせ、中年ポンコツの肉塊をファンタジスタになぞらえてピッチを縦横に駆け巡る様を思い描く。

きっといい一週間になる。
ホイッスル鳴るのが待ち遠しい。