西の空にうすらぼんやり光の名残りはあるが、もはや夜。
夏至の頃に比べて日の入りの時刻が少しずつ早まっている。
僅かな変化であっても明暗について人の感覚は鋭敏に働く。
帰宅の途上、クルマを走らせながら考える。
来年は卒後30周年記念の節目の年となる。
東奔西走し忙しい星光33期の面々だ。
早めに日程を調整しなければならない。
そしてふと思ったのだった。
わたしたち自身が残り30年ほどという地点に差し掛かっている。
想像してみる。
別室に連れられて、告知される。
「たいへん残念ですが、余命残すところ30年ほどというところでしょうか」
30年と言えば長くはない。
もし生まれて30歳で幕を閉じるのだとすれば、早世にもほどがあるといった話だろう。
最後にこう告げられる。
「お気の毒です。あとは思い残すことのないよう、後悔のないようお過ごしください」
川沿いの道にさしかかり、右折の列の最後尾につける。
テールランプやらヘッドライトやら色とりどりの光がせわしなく明滅して行き交う。
なんとあっけないことだろう。
もはやとっくに半ばを過ぎていて、来た道よりも早い30年をあっと言う間に駆け抜けるということになるのだ。
そう思った次の瞬間、何か大事なことに思い当たったような気がした。
後悔があろうがなかろうが、無に帰するのなら同じこと。
満足であろうが不満足であろうが、どの道、無は無であって、足そうが引こうが無と等価。
つまり自分のことなどとやかく思っても始まらない。
お先に失礼と無に還るだけのことなのだから。
しかし、先発隊である「有」のわたしが先立って「無」となっても、後発隊の「有」たちはかなりしばらく「有」のままである。
後に残る「有」こそが、人においての唯一の立つ瀬のようなもの。
そのようなイメージが湧く。
ということはつまり、「有」である自身が「無」に呑まれていった後、後続の「有」の世界に残した何かだけが、唯一意味を有し得る価値となる。
まもなく家というところ。
なるほど、そういう仕組みなのか。
納得できたような気がした。
残り30年、後に続く者らのことを考えて過ごす。
それが正しい在り方と言えるのだろう。
クルマを車庫に停め玄関をくぐる。
おかえりとの声が階上から聞こえる。
ただいまと応えてわたしは家族の待つリビングへと向かった。