KORANIKATARU

子らに語る時々日記

友達の友達は友達


今日、二男が帰ってくる。
たった一週間の不在であっても姿が見えないと寂しいものである。

まもなく学校に向かい、クルマで待機し二男を乗せたバスの到着を待つ。
そこに現れる姿を想像しただけで、心浮き立つかのよう、とても嬉しい。

何を隠そう、わたしは親バカ。
筋金入りだ。

子らが下宿生活するようになれば首を長くしてたまの帰りを待ち侘び、その顔を見れば大はしゃぎするのだと思う。
風呂を沸かして飯を炊き既に子らは一丁前であろうから酌み交わすお酒を選ぶ。

浮かれて過ごす楽しい時間となるに違いない。
子を出迎えることが晩年最大の楽しみということになるのだろうから、わたしの人生なんて単純なものである。


務めを終えたばかりの健さんは網走の食堂でビールと醤油ラーメンとカツ丼を注文した。
帰阪のバスに乗る我が家の若き健さんも何を食べるか思い描いていることだろう。

ラインナップのなか、たけふくのカツ丼が入っているのはまず間違いがない。
ラーメンはどこの店を選ぶだろう。
塩元帥であろうか、まこと屋か。
あるいは、なごみの餃子でどんぶり飯を腹いっぱい食べると言い出すかもしれない。

思う存分食べる姿に目を細め、わたしは健さんがしたようにサッポロビールを飲み干すことにする。


昨晩も毎月恒例の食事会。

肥後橋「さらんちぇ」の焼肉は、これでもかというほどに分厚くしかし柔らかく、当然美味しく、おまけにママさんが優しく親切に給仕してくれ、わたしたちは心ゆくまで食事を楽しめた。

一生分とも言えるほどの肉を堪能し尽くして、大阪市内から地下鉄、JRを乗り継いで帰宅した。
男4人連れ立っての帰路となったが、学生時代に友達と電車に乗っているかのような和やかさにくつろいだ。

中高大と学校は異なっても間に星光の友達が一人入れば接着度大きく、友達の友達は友達、ということになる。
星のしるべが触媒となり強く豊かに網目が拡張されていく。

来週はいよいよ、北新地屈指の人気店、纐纈(こうけつ)を訪れる。
天六いんちょが、家内の席も確保してくれた。
久々、タコちゃんにも会えるだろうか。

きっと楽しく美味しい場となって、家内は喜ぶに違いなくその様子を思い浮かべれば、わたしも嬉しくなってくる。


家内のブログを欠かさず読んでいる。
連れ添った年月はそこそこの厚みに達するが、まさに文は人なり、彼女の人となりが文章を通じると違ったアングルになってとても新鮮に感じられる。

感性豊かで母性も深いチャーミングな女性なのだと改めて気付かされ、しかしわたしは感想など口にせず、そこに書かれたことについても一切触れない。

だから、彼女がどのような日々を過ごしているのか大体は分かるのであるが、書かれず話されない事柄はその詳細を把握しようがない。
つまり、どこへ出かけたかは分かっても誰と一緒であったかなど細かいことは知りようがないということである。

ところがこの日、焼肉食べつつ「誰」の部分を偶然知った。

まさに、友達の友達は友達、だ。
わたしは、そのような交流があることを素直に嬉しいと思い、ひとつひとつの実質あるつながりに深く感謝したいような気持ちになった。

そしてこれに輪をかけて、子らが混ざっての場も近々催されることになる。
横だけではなく縦にも、友達の友達は友達、となっていく。
賑やかであって頼もしく、ほんとうにありがたいことである。