先日の会議の場、神父でもある先生がされた話が印象に強く残った。
いまこの国の子どもたちは不穏なメッセージに取り巻かれている。
大人はつい見過ごしがちだが、意識して子どもの目線になってみれば、どれほどネガティブな言葉が渦巻く環境に彼らが置かれているのかすぐ見て取れるはずである。
お前はダメだ、お前なんか大したことない、お前なんか要らない、死んでしまえ。
社会の怨嗟が、子どもという堤防のない岸辺に容赦なく押し寄せ堆積し、子の感性を汚染し続けている。
大人はその汚濁に慣れっこで平気であっても、子どもたちの心はどれだけ痛めつけられていることだろう。
言われて見れば確かにそうだ。
電車に吊るされた週刊誌の見出しには目を覆いたくなるような下品と低俗があけすけ開陳されていて、テレビをつければ、大の大人が大はしゃぎし、誰かをいじって嘲笑し、からかわれる方も下卑た顔して媚び諂い、ネットになれば更に輪をかけてその下劣が加速する。
些細なことに見えて実はろくでもない話なのかもしれない。
見ようによっては、日常の空間に禍々しい暴力同然のノイズが野放図まき散らかされているようなものである。
社会の有り様について、子に責任はない。
だから、子を育てる側、子を教える側の大人は、このような社会に生まれて育った子どもたちの「認知」に気を配る必要があり、歪みが生じているのであれば、それを正し導く義務を負う。
もしそこで大人が目を塞ぎ、知らぬ顔して手を抜けば、いびつな世界観を持った子をそのままにしてしまうかもしれず、加えて「そのままの君でいいよ」「ありのままでいい」など理解者ぶって尊重しようものなら、更にそのいびつを加速成長させてしまうという罪作りを働くことになりかねない。
親に限らず、教師の役割と責任も重大だ。
学校に入ってくる子どもたちに対して、教師はそのレベルの問題意識から向き合わなければならない。
そのような話であった。
親としても注意向けねばならない話であって考えさせられた。
ふと以前読んだ本のことを思い出した。
慶応大学教授である前野隆司さんの著作「死ぬのが怖いとはどういうことか」(講談社)に、幸福の4つの因子について記載があって、なるほど、幸福とはシンプルなものなのだと深く納得したことがある。
死についての考察から始まる内容であった。
いずれ誰もが死を迎え、そして死は無である。
しかし、どのみち無なのだからといってすぐ死ぬなど勿体ない。
生きて在ることは宇宙の奇跡。
生はあぶく銭のような儲けものとも言える。
だから謳歌できるなら、そうした方がいいはずだ。
そのような流れで話は幸福論へとつながっていく。
前野さんは個人の幸福について1500人にあたって調査解析を試みた。
その結果、幸福に相関がある4つの因子が明らかとなった。
たったの4つに集約される。
なんとシンプルな話だろう
ひとつは、目標があるかどうか。
夢や目標に向け、自分の能力に信頼を持てるのであれば幸福。
ふたつめは、つながり。
ありがとうと感謝を向けられるようなつながりがあるのかどうか。
互いに親切にし感謝し合う関係があれば幸福。
次に、楽観性。
ポジティブに前向きに物事に取り組めるのであれば幸福。
そして最後が、自分らしさ。
他人と自分を比べない、マイペースに生きられるのであれば幸福。
以上の4つ。
大事なことはこのようにとてもシンプルだ。
基本を見失うことさえなければ、誰だって幸福になれると言っているようなものである。
社会が世知辛くなろうが、誰がどうであろうが、煽られず焚き付けられず我が道をしっかり進むのが最善。
その基礎を形成しているのが今の時期と言えるのだろう。
幸福は短期決戦ではなく、長丁場。
その場だけの幸福ごっこは長くは続かずつまりは不幸の裏返し。
長くしみじみ末永く幸福を味わえる、そんな大人になるための訓練所として学校というものがあるのだろう。