KORANIKATARU

子らに語る時々日記

秋の役者がまもなく勢揃いする

一気に秋めいた。
夕暮れの街に爽涼な風が吹き渡って、そのヒンヤリ感に胸がきゅんとなる。

冷えるね。
そう言うと、二男がつぶやいた。
この季節が一番いい。

同感だ。

クルマに乗って帰途につく。
せっかくだからと窓を全開にする。
久々お出ましの秋を体感し尽くそう。

FMからは池田なみ子さんの声が聴こえる。

二男に話す。
池田なみ子さんは特別な存在だ。
平日の朝、月曜から木曜までは名DJヒロ寺平さんが喋っているが男性だ。
それが金曜になると池田なみ子さんに変わる。

一週間をまもなく走り終えるという金曜日。
彼女の声が聴こえるとどれだけほっと安堵できることか。
その声は、最後の直線に入ったことを告げる鐘の音、トンネルの出口に一筋差し込むほのかな光に例えられるだろう。

だから必ず金曜は池田なみ子さんの番組をBGMにする。
金曜の味わいがいっそう深まってとても穏やかな気持ちにひたることができる。

土曜もそう。
そして、締め括りが日曜の夕刻。
過ぎ去っていく週末の時間を慈しみ、その声に耳を傾ける。
映画の余韻にひたってエンドロールを凝視するようなひとときである。

家に池田なみ子さんがいればいいのにね。
二男がそう言う。

その言葉に導かれ、空想の世界にちょいとお邪魔する。
それだけで平穏が訪れた。
脳波の波形が静かな湖面に浮かぶ波の紋様みたいにゆったりとした弧を描く。

息子があってこそ、このような会話をかわすことができる。
どう見ても四十過ぎて友だちとする話題ではなく、何歳であろうが家人とする話でもない。

内面の奥まった領域を開け広げにできる関係は希少なものだろう。

この朝もそう。

明け方、FMからインド音楽が流れていた。
インド音楽だとどれもこれも同じに聴こえる愚鈍な父とは正反対。
映画チェンナイ・エクスプレスのダンスシーンで流れた曲だと二男は即座に感づいた。
さすが映画少年。

それで映画談議となったが、学生時代に足繁く通った早稲田松竹の話から、わたしの人生を振り返るような話になった。
こう見えて人生山あり谷あり。
映画好きのわたしでも、映画のえの字さえなかった時期があった。
結婚してからの7,8年は急斜面を這って上るほどの辛苦の時代。
それこそ目の開く間は働き通し、片目でさえ映画観る暇はなかった。
心置きなく楽しめるようになったのはここ数年のことである。

そう二男に話し、話すことでその苦労も報われたという気になった。
このような自分語りも友だちとするには照れ臭く、するとするなら息子をおいて他にない。

まもなくクルマが武庫大橋に差し掛かった。
日本百選に名を連ねるこの名橋が、西宮の玄関口を情緒あふれるものにしている。

薄墨色の雲に空が覆われ、六甲連峰の稜線と雲の輪郭が融け合わさったように見える。
その景色を背景に、左右整然と並ぶ橋の照明塔がひときわ美しい光を放つ。

橋の上、光浴びての信号待ちとなる。
川面伝いに澄み切った空気が車内に満ちる。
緑の香が呼吸を深く長いものにしていく。
一呼吸ごと心が洗われる。

二男が言った。
あとは金木犀。
それで秋の役者が揃う。

そうそう金木犀。
記憶をたどってわたしは金木犀の香りを呼び起こす。
ジャストミートでキャッチして、その匂いをわたしは胸深く吸い込んだ。