KORANIKATARU

子らに語る時々日記

巡り合わせひとつで人生の天候が様変わりするかもしれない

クルマで帰るとき、たまに近隣のお風呂屋さんに寄る。
この日は甲子園球場近くにある浜田温泉でひとっ風呂浴びることにした。

幸いなことに駐車スペースに2台の空きがあった。
わたしが停めた一瞬後、真隣に真っ白なベンツがやってきた。
これで駐車場は満杯となった。

座ったまま携帯の着信に対応しているとベンツから女性が出てきた。
五十歳手前といったところであろうか。
下町の風呂屋にしては身なりがゴージャズで目を引いた。

天然温泉で名の通るお風呂屋である。
湯触り心地よく、おそらく美肌効果も高いだろう。
ゴージャスな人が現れても何ら不思議はない。

電話で話しつつその背をぼんやりと眺める。
格好と風貌からたいていの場合その素性の察しはつくが、その女性については皆目見当がつかなかった。

何かの本に書いてあった。
近頃の女性は、置かれた経済状況によって3つのカテゴリーに分かれるのだという。

生計を担うため日常的に働かねばならない女性。
夫の収入で十分暮らしがまかなえるので働きに出る必要のない専業主婦。
そして、あえて働く必要はないのだが、なかば道楽に近い趣味を事業にし満喫する兼業主婦。

どこにあてはまるのか、パッと見て見分けられるようなものではないだろう。

その気になってそのように見せられたら、そのようにしか見えない。
つまり、実際にゴージャスなのか、なんちゃってゴージャスなのか、ほんとうのところなど分かるはずがない。
頼りない推測ができるだけのことである。

湯に浸かりつつ、わたしの頭のなか「もしわたしに娘がいたなら」シリーズがはじまった。

もしわたしに娘がいたなら、まずは何があろうと独立して生計営めるよう、目一杯勉強させるだろう。
それは間違いない。

しかしそのくせ、長じた娘が全力投球で必死のパッチに仕事しているとしたら、少しも嬉しくないと思ってしまうような気がする。

手塩にかけて育てた大事な娘が、雨にも負けず風にも負けず、セクハラをもパワハラをも跳ね返して気丈に仕事しているとしたら、どこかで不憫を感じてしまうのではないだろうか。

仕事の風雨にさらされることなく、家庭を守り子どもを育て穏やかに暮らす在り方を望ましいと、わたしは思うに違いない。
昔気質に過ぎるだろうか。

そして思考は想像のその先へと分け入っていく。

誰であれ自分ひとり食べてゆくだけでも簡単なことではない。
人ひとりが単に生活するだけでも、想像以上に入り用だ。

家族まとめてその経済を背に追うなど、これはもう生易しいことではない。

つまり、わたしに娘がいたなら、教育に力を入れる一方で、来たるべき男子争奪戦にも本腰を入れることにならざるをえない。

大漁願う漁船の乗組員さながら、ハチマキ巻いて旗振って、活きのいい男子つかまえようと声を枯らすに違いない。

吉と出るか凶と出るかで人生の天候は様変わりする。

良き心根で働き者の男子が伴侶になればこんな心丈夫なことはない。
娘は、孤軍奮闘を余儀なくされることはなく、ずいぶんと楽な気持ちで日々を過ごせることになるだろう。

うまくすればベンツにのって宵の口から天然温泉の湯にゆったり身をゆだねるということも可能だろう。
しかも明日の仕事に思い悩むことはなく、当然明後日の仕事に気を揉むこともない。

ああ、やれやれ。
存在しない自分の娘がまるでそのような得難い境遇にありついたかのような安堵を覚えて湯に憩う。

それだけでも十分身に余る幸せなのに、そのうえ趣味のビジネスまで始めるとすれば、娘婿にはますます頭が上がらない。
いつも悪いねと娘婿にビールを注いで、娘に対しては甘えるのもいい加減にしなさいよとたしなめつつ目を細めるのだろう。

が、娘は不服そうに見え何か言いたげだ。

どんなに恵まれた立場にあっても不平不満がやむことはないようだ。
ばかばかしくなってその場面を最後にわたしは空想のページを閉じることにした。