KORANIKATARU

子らに語る時々日記

最強最愛の相棒が兄であり弟だ

先日のこと。
都島の五叉路交差点の一角。
コンビニで買ったコーヒーを片手にわたしはぼんやり立っていた。
早く着き過ぎ、約束の時間まで間があった。

一組の老いた夫婦連れが前を過ぎ、わたしの視線は老夫に引きつけられた。
老夫が着ているのは、ベースの黄緑に紺がアクセントとしてあしらわれたアディダスのジャージである。

そのジャージによって幕が切って落とされ過去が鮮明に蘇った。

40年近くも遡った昔のこと。
ジャージという着衣が日常の景色に浸透し始めたのは、ちょうどその頃のことだった。

わたしたち兄弟にもジャージがあてがわれた。
行商する祖母が気を利かせ可愛い孫のためにと問屋で仕入れてきてくれたのだった。

わたしたちにとって嬉しいことであったはずだが、しかし手放しで喜べた訳ではなかった。
なぜなら、そのジャージは二本線。

当時、ジャージと言えばアディダスであり、ジャージ通に言わせれば、アディダスでなければジャージではなかった。
そして、アディダスには線が三本入っていた。

つまり、今風の言い方をするならば、線は三本がmustなのだった。
三本の線を有さないアディダス以外のジャージは、ひとまとめ、イモ・ジャージと蔑まれた。

だからわたしたちは、流行服としてのジャージを身につけることで少しばかりは晴れがましく下町の路地を闊歩し疾走し、しかし、アディダスを着る者に出くわせば、線が一本足りぬことをまるで我が身が劣っているかのように深く恥じ入り二人して身を縮めねばならなかった。

わたしたちは小学校低学年にして、世に厳然と存在する階層性について身に沁みて学んだのだった。

ある時、わたし達の強固な陳情を聞き入れて、母が大奮発、商店街のスポーツ店でアディダスのジャージを上下揃いで買ってくれた。

忘れもしない。
私のは、紺に白の三本線。
弟のは、黄緑に紺の三本線。

これで下町少年社会での序列等級がアップする。
兄弟して喜びあったことが懐かしい。

ところが、たかが少年の世界とは言えそんな甘いものではなかった。
線が一本増えたところで一目置かれるとかチヤホヤされるとか、そんなことはあるはずもなかった。

トレンドはとっくの昔に他のジャージに移り、線が二本だろうが三本だろうが、誰も気にするようなものではなくなっていたのだった。

いつの世であれトレンドの尻はどこまでも軽い。
今も昔も、追えば追うほどアホが見る豚のケツといったようなものであろう。

前を通り過ぎる老人をわたしはずっと目で追い、角を曲がるまでその背を見届けた。
老人が着ているジャージは、当時、弟が身につけていたものと寸分の違いなく全く同じデザインと色使いのものであった。

五叉路の一隅、しばし、弟について考え物思いに耽る。

弟とは一歳違い。
本当に兄弟なのかと疑われるほど、わたしと異なり弟はハンサムでスタイルよく運動神経抜群。

一見似ていない兄弟ではあったが、物心ついたときから、二人で一セットみたいなものであった。
小さな下町の家で一緒に暮らし、どこへ行くのも一緒だった。
路地を走り回って一緒に遊び、学校も一緒に行き、一緒にご飯を食べ、一緒に銭湯に行き、一緒の布団で寝て起きた。

高校生になっても、同じ部屋。
2つ並べて敷いた布団に寝転がり、天井眺めながら、夜更けまであれやこれや話し合った。

それぞれ大学に進んでからは離れ離れとなった。
結婚し仕事が忙しくなってからは、更に顔を合わせる機会が減っていった。

間が空けば空くほど少し照れ臭く、顔合わせても口数減るが、そもそもが切っても切れない関係であり、相通じあっていることには変わりがない。

だから、当然のように夢には毎回、弟が登場する。
今もそう。
ふと目覚め、そこに弟がいないことを一瞬不思議に思ったことも数知れない。

深層においては幼少からと変わらず一心同体、弟とつながっているようなものなのだろう。

子らに対しても、弟についてもっと語っておく必要がある。
そう思い当たる。

二人にとっておじさんにあたる弟について、あらたまって話題に取り上げるようなことはなかったが、わたしが弟について語ることは、子らにおいては、兄弟というものについて語ることに等しいはずだ。

わたしたちがこの世で唯一無二の兄弟であったように、子らも長男と二男で唯一無二の兄弟である。
彼らも一つ屋根のもと暮らし、大半の時間をともに過ごし共有してきた。

この先いつかは離れて暮らすことになるだろうが、いつだって真隣にいる存在、それが兄弟である。
深層でつながって一心同体。
そんな最強最愛の相棒が、兄であり弟だ。

それぞれ長じた後も、兄弟として互いを尊重し互い助け合う。
必ずそうでなければならず、もし父として一言しか言い残せないのだとすれば伝えることは「兄弟仲良く」の一語に尽きるだろう。
願わくば、その結束の有り様を眺めて過ごす晩年を迎えたいものである。