KORANIKATARU

子らに語る時々日記

合格発表の鐘の音

結構な数の中学で昨日は合格発表があったようである。
現実世界のゴツゴツザラザラとした一面を目の当たりにする、数少ない場面だと言えるだろう。

優しい肌触りのふんわり感は皆無であって、まるで死と隣合わせでもあるかのような思いで誰もが息を呑む。

吉と出ればとろり溶け出すような七色の幸福感に包まれ、凶と出れば入れ込んだその分だけ大きく空いた胸に木枯らし吹き込むかのような茫然自失に見舞われる。

しかし一歩の距離から俯瞰し眺めれば、いずれにしたところで突き詰めればどっちもどっちというのが本当のところではないだろうか。

要はそこを起点に新たなスタートが切られるだけのことであり、ゴールのように見えて、そこがゴールのはずがない。
つまりたかだか中学に入っただけのこと。

受かったとしても塾やママらにおだてられ木に登ったままでいいわけがなく、さっさと降りて地に足つけるべきであり、落ちたとしてもさっさと顔上げ胸張って次に向かっていかねばならない。

発表の瞬間の身も凍るような慄然。
これは強力なテコになる。

受かったことが弾みになって更に研鑽に励もうと決意新たにする者がある。
落ちた失意が強烈な熱源となってぼんやり眼に炎たぎるかのような覚醒に至る者もある。

このようなプラスの作用の一方、やんや喝采、勝利だ栄冠だと浮かれ騒いで、やがては祭りの後の空虚。
全く学校生活に適応できずに不本意な毎日を余儀なくされたり、あるいは、親子ともども致命的なほど甘やかされて非力極める末路をたどる者もある。

そういった、なんのこっちゃ分からない、という事例が絶えることはなく、その証拠に、あのときが人生のピークだった、と寂しい目で小学6年の頃の思い出にひたる中年男性は後を絶たない。
なんと悲しいことだろう。

だからこそ、合格はある種の危機でもあるというくらいの受け止め方が多少なり必要だろう。

浮かれた挙句にはしご外され鳴かず飛ばずになるくらいなら、いっときはひりひりとした痛みに苛まれても芯のようなものが宿る期間があった方がいい。
子どもであるから尚更のこと、長い目でみれば、そのように合否の評価が逆転する場合も珍しくはないのである。

受かろうが落ちようが、ひとつの区切り。
単にスタートの鐘が鳴ったようなものであって、まだまだこれから、先は長い。
今回の結果が最良であった、そう結論できるのははるか先のことになる。