出先から戻る途中、夕飯も済ませることにした。
通りかかった松屋に入った。
終始一貫し寒さ厳しい一日だった。
客が出入りする度、自動ドアが開く。
極めつけの冷気が足元から這い上がってきて、カラダが震える。
また開いた。
自然と入り口に目が行って、目を疑った。
およそ飲食店には不似合いな風体のおじさんが中に入ってきたのだった。
どこからどう見ても野宿者である。
髪は四方に乱れべとつき、無精髭に覆われた地肌は黒ずんでいる。
着衣は傷んで変色し草履履きの足元が痛々しい。
この場に居合わせたくない、わたしはそう思って腰を上げかけた。
そのオジサンが視界に入らぬよう顔そむけつつ去ろうか留まろうかしばし逡巡する。
わたしの他、店内いた客すべてが身を固くしていた。
空席がちらほらあって、皆考えていることは同じはずだった。
頼むから隣に来ないでくれ。
逡巡している間にわたしの注文した品が運ばれてきた。
わたしは呼吸を浅くした。
匂いまで捉えてしまえば、食べるどころの話ではない。
おそるおそるオジサンの様子を窺ってみる。
オジサンは食券の自販機の前に立ち、勝手分からないのだろうか、じっと見据えている。
店員はただ傍観するだけで助け舟を出す気配もない。
「ここで買うんやな」。
オジサンは自らに言い聞かせるみたいにそう言って小銭を投入した。
そしてまったく迷うことなく、牛丼並盛290円のボタンを押した。
オジサンはわたしの三席右隣に腰掛けた。
定番メニューであるからオジサンのもと並盛は即座配された。
わたしはアッキーさんの言葉を思い出していた。
二十年以上も昔、早大無人島研究会の合宿のときのことである。
無人の島の環境を害さぬようシャンプーも石鹸も洗剤も使わない。
だから数日も過ごせば、誰であれ焦げ臭いような体臭を発し始める。
皆が体臭を帯び始めた頃合い、アッキーさんが言った。
これが人間の匂いなんだよな。
慣れればいい匂いだって分かるよ。
なんと核心を突いた言葉なのだろう。
当時のわたしはそう思った。
くさいと忌避しようが、それがそもそも人間の匂いなのである。
誰もが有して発するものであって、都市生活においてそれを取り繕って誤魔化して消し去っているだけのこと。
元はと言えばこの匂いこそが本家本元、人間の香りなのだ。
遠い昔のアッキーさんの言葉がよみがえり、わたしはそのオジサンを受け入れるような気持ちになっていた。
厳しい寒さに見舞われたこの日、オジサンは小銭を握りしめ、温かい食事を求めてここにやってきた。
他の客らがどんな反応をするか。
疎まれるだろう、そう承知のうえで意を決しての来店であったに違いない。
クチャクチャとオジサンの食べる音が聞こえてくる。
もう不快に思う気持ちはない。
同じ人間であって、成分に大差はない。
オジサンを見た瞬間に席を立とうとした自身の初動をわたしは恥じた。
ずいぶん思い上がっていたものである。
不遜なことこのうえない。
オジサンはゆっくり時間をかけ一口一口丁寧に牛丼を味わって食べている。
わたしたちは食べずには生きていいけない。
それは厳粛な場面であるとも言え、わたしは一食の貴重さを思い知らされた。
わたしの方が先に食事を終え席を立つ。
息子を迎えるため一路灘浜グランドに向けクルマを走らせた。
夜にかけ冷え込みは一層厳しさを増している。
ふとオジサンのことが頭に浮かぶ。
お腹も満たされて、きっと暖かなねぐらにもありつけることだろう。
わたしもそう。
今日もご飯をいただけて、日がな暖かく過ごすことができた。
息子と帰って今夜も家でゆっくり休むことができる。
ほんとうに有り難いことである。