KORANIKATARU

子らに語る時々日記

旬の時期がまだこの先に待っている

出会いに恵まれる。
それがこの仕事の醍醐味だ。

この日お目にかかった事業主もたいへん魅力的な方であった。

ご夫婦で二人三脚、いつのまにやら10期目を数えここが節目とわたしに声がかかった。
今後、その二人三脚に混ざって歩みをともにし、あれやこれやとお手伝いすることになる。

会話の端々にご夫婦が経てきた道のりの険しさが覗き見えるが、力を合わせそれを過去のものとしてきたお二人の奮闘に敬服のようなものを覚えた。
仕事の話が夫婦の歴史と渾然一体。
だからどの難所に水を向けても話は尽きないものとなっただろう。

互い深い共感と敬意もって仕事に取り組める、
そんな良好な関係が築けるだろうと直感できる収穫大の出会いとなった。

先日読んだ「幸福の資本論」のなか「となりの億万長者」という書籍が取り上げられていて、買おうと思ってそのままになっていたのだが、ふと思い至った。

買わずともその内容についてわたしは実地で熟知している。
お金持ちは市井に暮らし、一見そうとは分からないほど質素に佇む。

様々な出会いを通じてわたしはそう知っているので、買って読む必要はなく何ならわたしが書いた方が話は早いというものだろう。

ついでに言えば、その正反対についてもそこそこ詳しい。
ミサイルに散財するどこか隣国の外交戦略よろしくがちゃがちゃ自己主張するお金持ち風情はどこにでもいて、その内情はまるでどこかの隣国と瓜二つ。

話し始めればキリがないほど多種多様なエピソードにあふれる日常であるが、そのすべてに仕事が絡む。
だから踏み込んだ話は詳らかにできず、そのほとんどすべてを自分の胸にだけしまっておくということになる。

いまは仕事を通じ、様々な話の種を預かっている。
おそらくそのようなことなのだろう。

時期が到来すれば、預かった話をわたしは何らかの形で書くことになるのだと思う。
それがわたしの晩年の役割、そう思うとなにか手応え感じるようであって心湧き立つ。

脂の乗り切った旬の時期が、まだこの先に待っている。
だからそれに備え、日々鍛錬欠かさず養生するのが大事だろう。

昨晩も家内に頼んで耳ツボを押してもらった。
このとき耳にした二万語もまた、将来花咲く種子としてわたしの胸に仕舞われた。

施術語の団欒に添えられたのは、沖縄から送られてきた完熟のマンゴー。
まもなく夏。
いつかわたしにも不滅の夏がやってくる。