KORANIKATARU

子らに語る時々日記

子育てが一段落し視野が外に開いていく

ジムでトレーニングしているとこちらに真っ直ぐ近づいてくる人影があった。
家内であった。

ジムのセキュリティをかいくぐっての予期せぬ出現でありわたしは大いに驚いた。

市内でヨガを終えての帰途、事務所近くの商店街で買い物しようと思ったが財布を忘れた。
それで寄ったのだという。

まるでサザエさんではないかと思いつつ、ちょうどいい頃合いでもあったのでそこで運動を切り上げることにした。
手早くシャワーを済ませて着替え、家内につき従って商店街へと向かった。

買い物の選定はすでに終わっていてあとはお金を払って品物を受け取るだけ。
会計と運搬そして自宅までの運転、それがわたしの役目であった。

クルマ走らせながら家内のここ数日の近況を聞く。
このところはボランティア活動の手伝いなど人様のお役に立って活躍する場面が増えているようである。

もしかしたら家内の役割自体が次のステージに差し掛かりつつあるのかもしれない。
家内にそう話す。

自分固有の関心事や楽しみに占められるどちらかといえば閉鎖性有する視野が、誰かに請われる形で外に開き、自分以外の誰かのためささやか貢献するような開放系に移り変わっていく。

これは子育てから手が離れつつあることとも関係しているのだろう。

男子に対してする子育てはロケットの打ち上げのようなものに喩えられるかもしれない。
手間ひまかけて整備し燃料をくべとたいへんな労力を注がねばならないが、一定の段階を過ぎればあとは自力で飛び立つのを待つばかりとなって、母として果たすべき役割が激減する。

ここに至るまで母親として曲りなり成長し、内に蓄えられた力が無意識裡、外を志向しはじめる。
おのずと次はステップアップ、何らかの役割を負い誰か他者に対し意味ある存在になっていくというプロセスに入る。

子育てに引き続いては、そういった試みと学びのステップが用意されているという仕組みになっているのではないだろうか。
そして、その任に堪えうる能力と誰か人のためになる内実をいまや十分に備えているというのもまた確かなことであろう。

実際、その次の道行きを示唆するかのごとく、このところ家内が話す二万語のなか、重きをなす登場人物が変貌し始めており、地域の老人や子どもたちを対象とするボランティア活動に励む方々の話が増えてきた。

仕事を終えた後、誰かのために労を割く。
そんな方々の話を聞くと頭が下がって、同時に、良き地域社会形成のための不可欠の心がけを思い知らされる。

そのような心の有る無しで、地域の住みよさは雲泥の差となるだろう。

ごくごく若い頃は視野狭く余力もないから関心領域が自分や自分周辺であるのはやむをえないことかもしれない。
が、成熟した大人として地域での役割を俯瞰したとき、誰かのために一肌脱ぐくらいの気構えを持ち合わせる在り方は、人として当たり前に大切なことであるはずで古来より人はそのような心意気で支え合ってきたに違いない。

ネットで得られる「いいね」もいいが、隣人からの「ありがとう」がないなら世も末だ。

数え切れないほどのありがとうを集めるであろう母の姿は、いつか子らに好影響を及ぼすことになるだろう。

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息子からの写真