神戸での仕事が早くに片付き、久々、六甲道にある灘温泉に寄った。
天然湯に浮遊し過ごすこと半時間。
たちまち蘇生しココロもカラダもふんわり軽くなった。
たまには早く帰ろう。
すべすべの肌で風きりながらそう思い立つ。
事務所に戻ってさっさと後片付けし、じゃあと言い残し帰途につく。
美味しいものでも買って帰ろうと商店街の魚屋をのぞく。
見るからに蕩ける中トロ刺身がわたしを誘う。
ここの刺身はハズレがない。
念のため家内にメールする。
チュートロいる?
笑顔マークの返信があったのでわたしは種類違いを二盛り買った。
家に帰る。
息子らは留守。
家内とわたし二人での夕飯となった。
アボガドにもずく、山芋の入ったサラダに筑前煮。
そこに買ったばかりの中トロが合流することになった。
家内の二万語がまぶせられていく。
この日、ママ友に言われたらしい。
息子くんは二人とも東京の大学に行くんじゃない。
そう言われてはじめて、何が起こりつつあるのか家内はリアルに感づくことになった。
わたしたち家族の日常にもしかすると大きな変化が訪れようとしているのかもしれない。
え、マジ。
家内の率直な感想は、その一語に尽きた。
拍子抜けするような空虚に、寂しいという語さえ浮かばないようであった。
遅かれ早かれ子らは巣立つが、離れ離れになるのではなく単に生活圏が拡大するだけの話ではないだろうか。
わたしはそう話す。
子らが東京に行けば、居は別であっても東京がぐんと近くなる。
東京大阪の行き来が頻繁になって日出ずる処から新しい風がどんどん我が家に入り込んでくる。
ちょうどいいからそれを機会に東京でも仕事するようにすればいい。
幸い、体一つ身一つでできる職業だ。
例えばいまだと週末は天王寺アポロで食事しようとの話が、東京も生活圏になれば週末は天王洲アイルでといったように異なる地名も増えてきて、それはもう賑やか楽しいことであるに違いない。
もちろん息子らからすれば親がつきまとうなど真っ平ごめんという話であるはずで、だから適度に距離を置き付かず離れずその様子を眺めるということになるだろう。
であれば、いまと全く同じこと。
子らの視点になって思えば、寂しいどころか楽しみが増すような話であって、しょんぼりする要素などどこにもない。
子らが育って訪れる変化の境界線は太くて濃いが、本質は変わることなく全く同じ。
違えば違うほど同じこと、そんなことわざがどこかの国にはあったように思う。