ジムを終えての帰途、家内をピックアップする。
この日家内はやや物静かな口調。
話を聞きつつわたしは静か感想を交えていく。
世にはいろいろな人がいる。
日常自体が苦しいという人がいて、苦しいを通り越しいまや息も絶え絶えという人もいる。
その一方、余裕ある人がいて余裕綽々という人もいる。
いまこの瞬間のことなら苦しくとも耐えられる。
が、それがいつ果てるともなく続くとなると気が滅入る。
手にする豊かさ自体もものを言うが、より大きくは希望の有無。
昨今それが人を分け隔てる最大の要素となってきたと言えるのではないだろうか。
希望については豊かさと異なり擬装は利かず、希望の明度によって立ち位置が明瞭に照らし出される。
人であるからそこに複雑な感情が入り交じる。
たすきがけでの交流はあっても、その交流は和気藹々としたものに成り難い。
もはや一億総中流の日本ではない。
かつての穏やかな横並びの視線は、屈折した思いを乗せて乱反射するようになった。
その人が歩いているのを見るだけで気分が悪い。
夢見られた21世紀、日本はそんな不機嫌がスタンダードという世になった。
路地裏のネオンのようにチラチラ点滅する光が目に障ることもあるだろうが、それはそれこれはこれであり、要は自身の希望に向き合うことが肝心要な話だろう。
家族みなでわたしたちの道を行くだけのこと。
我が家に宿る熱々の希望に集中していれば、細かなことは気にならなくなっていくはずである。