休みが数日に及ぶと、ある種の危うさについて感知することになる。
秩序だった日常がいったん歩みをとめ、そこから解放されることは快である。
円滑な日々を送っているにせよ、気づかぬうちあちこち疲弊している。
干からびた箇所は潤いを欲する。
だから休みは不可欠だ。
が、元の日常に戻る際、あれほど自然に馴染んでいた安定の日々に、多少なり違和感を覚えることになる。
休みが長くなればなるほど、元いた世界が違って見える。
毎日を過ごす慣性のなか不可視となっていただけのことであり、実のところ、わたしたちが平穏無事と思って見ていた日常は、奇跡と奇遇によって織りなされる非日常と言うしかないような険しい世界。
ゆっくり休むとそう気づく。
確固盤石な地を踏みしめていると思っていたのに、実は吊橋の上にあって、ゆらり揺られて、その下は谷底。
人の子であれば、戻るに際し怖じ気づいても仕方ないという話だろう。
もちろん子どもではあるまいし、つべこべ言ってもはじまらない。
寡黙に体を預けて目を慣らし、そうこうしているうち、ひょんな弾みで何かに引き込まれるみたいに元の流れに再び溶け込むことになる。
それで日常に回帰するのだが、意識の片隅には、確かさが内包する不確かさの感触がきちんと残っている。
肉体的なリフレッシュ効果以上に、休むことのメリットはそこにあると言えるかもしれない。
実は不確かさのなかにあるのだと正気に戻ることは、サバイバルするうえではプラスだろう。
太平楽の鈍感よりは、常に聞き耳立てるような態勢に近づくのだから野生に近く、いざというときの身のこなしも異なるものになるだろう。
野生という初心にかえって日常と対峙する。
休みの恩恵は奥深い。