予兆はあった。
数ヶ月前のこと。
ジムで走っていると電話が入った。
家内からだった。
クルマを駐車場に停めた後、インロックになってしまって財布が取れない。
いま取込み中なので苦楽園まで助けに行けない。
タクシーを使って家までスペアキーを取りに戻ればいい。
そう助言した。
なるほど、と家内は息子とともにタクシーでいったん家に戻った。
家は認証式なので鍵がなくても出入りができる。
クルマのスペアキーを携え同じタクシーで苦楽園に引き返し、無事財布を取り出すことができた。
タクシーの払いを済ませ、そして息子とともにディナーを楽しんだ。
インロックに見舞われるなんてドジな話だ。
わたしの感想はそれだけだった。
そして昨夜。
心やすらぐ金曜の夜。
ジムを終え、クルマに乗った。
日中からチラついた雪がうっすら車体全面に積もっていたが構わずそのままクルマを走らせた。
が、フロントガラス一面に残る氷の結晶が視界に障って落ち着かない。
深い考えもなしにワイパーを作動させたところ、視界は更に悪化した。
常日頃から運転の際には細心の注意を払う。
万一のことを考え、歩道側の車線にクルマを寄せ停車した。
クルマを降り、手元にあったハンカチでフロントガラスの氷の雫をきれいに拭き取った。
これで視界良好、快適に運転できる。
と、安心したのも束の間。
運転どころか、今度はドアが開かない。
キーは車内。
エンジンはかかったまま。
わたしもインロックに見舞われたのだった。
財布など貴重品、ダウンにマフラー、帽子といった防寒具もすべて車の助手席に置いてある。
ガラス一枚隔てて手が届かない。
不幸中の幸い、トレーナーのお腹ポケットに携帯だけはあった。
余裕があればドラえもんのように、携帯を高く掲げるのだろうが、当然わたしは恐慌状態。
慌てふためく内心を落ち着かせ、打開策見出すのに必死であった。
クルマを路上に放置しタクシーで家に取って返すことなどできるはずがない。
なにしろ駐車禁止の場所であり、車内に貴重品が入っていて、ライトがついてエンジンもかかったままである。
かといって、スペアキーを持ってきてくれと家族に助けを求めるような大げさな話でもない。
結論はひとつしかなくクルマを締め出されて1分後にはJAFに電話かけるのであったが、凍えるような寒さの夜、あちこちでトラブル頻出なのだろう、まったくつながらない。
回線が混み合う旨を告げる自動音声はひんやり冷たく寒さ増すばかりであったが、この回線以外、助けを求める先はどこにもなかった。
歌で言えばヘビロテ効果、自動音声が十分に耳に馴染んでいつまでも聞いていたいと思った頃合い、ふいに、生身の人間の声に変わった。
我に返って懇願するような単刀直入でわたしは声の主にすがった。
25分後。
JAFのクルマが来てくれる。
安堵感が頑丈な盾となって、容赦ない寒さをはねのけてくれる。
まもなくJAFが現れた。
ああ、これで助かった。
そう思ったのであったが、作業が遅々として進まない。
ルパン三世がちょちょいとするみたい、一瞬で開くのだとわたしは思い込んでいた。
待つこと20分。
寒さで気が遠くなる寸前であった。
これまで一体どれだけの数の人類が、寒さに為す術なく命を奪われたのだろうか。
わたしは、その一人一人の無念を思い浮かべるような悲痛な気持ちになっていた。
ようやくドアが開いたとき、わたしはクルマのシートにへたり込んだ。
車内に満ちる温かみに身をひたすが、バイタルサインが回復するには時間を要した。
わたしはしばらく動けなかった。
このとき心は一つに決まっていた。
向かう先はサウナ。
普段はジムで汗をかくのでサウナに入ることはないが、このときばかりはその熱さに恋い焦がれるような思いとなっていた。
和らかの湯にまもなく到着し湯場に入って真っ直ぐサウナに向かった。
サウナのなかは和気藹々としたくつろぎの空気に満ちていた。
バラエティ番組が流れ、汗をかきかきおじさんらが笑う。
その一角に混ざって、わたしは寒さとは正反対の世界に憩った。
生きているとほんとうにいろいろなことがある。
そのどれもが予期せぬ出来事。
死神は案外身近なところを徘徊している。
そう身をもって知る一夜となった。