KORANIKATARU

子らに語る時々日記

どのみち手の平の上

家内が作り置いていった大量の料理も一人の男によってあらかた食べつくされた。

彼のためこの夜は焼き鳥を調達することにした。

 

大皿にきれいに並べて帰りを待つ。

帰宅しその壮観を目にして、彼は喜んだ。

 

彼が食べる様子を眺めつつ、わたしはビールを飲む。

夜、くつろぎの時間は長男と二人きり。

 

GooglePhotoをのぞくと彼の地で二男はちょうど足つぼマッサージを受けている。

芳しいイタキモがリアルタイムで伝わってくる。

 

しみじみ思う。

あと数年もすれば息子二人は大学生になる。

 

大学にやれば最低限、親の務めは果たせたことになる。

わたしも親にそうしてもらった。

そこがひとつの区切りとなる。

 

区切りを越えれば、親として何が何でもとプレッシャーかかるハードルはない。

結婚などは二人とも勝手にいい人を見つけてくるだろう。

 

だから、あとは気楽だ。

肩の荷がどっさり降りる。

 

仕事に精出すのもよし、仕事をセーブし趣味に興ずるのもよし。

たまに子らに目をやればいいくらいで済むから自由度が増す。

 

そんなことを思いながら、ガツガツと焼き鳥を食べる息子を見て気づく。

 

間違いなく彼も同じ構造で考えている。

大学生になれば、肩の荷降りる。

大学生になれば、自由度が増す。

 

確かに今現在の荷はなくなり不自由は消えるが、また別種の重荷が乗って制約が課されることになる。

人生のほんの少し先輩としてわたしはそう知っている。

 

神様が有するコレクションはそれこそ人智の域を超えている。

重荷制約の品揃え豊富で在庫が尽きることがない。

 

この角さえ曲がれば楽になる、子羊たちがそう信じて歯を食いしばっているのをよそに、神様は矯めつ眇めつ次に背に乗せる荷を検分している。

 

それでも、いまでは神様も気優しくなって、逆境につぐ逆境で辛酸なめてきたご先祖の頃に比べればずいぶんと手加減してくれるようになったのではないだろうか。

これも先祖の功徳の因果なのかもしれない。

 

そのうち家族の景色が模様替えとなる。

どのみち、手の平の上にのる修業の身。

その苦楽を問うても意味はないのだろう。

 

また明日も頑張ろう。

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2018年3月13日午後6時 台湾新北のどこか