久々、家で映画をみた。
日本では公開中止、その謳い文句で手に取った。
タイトルは『マザー』
序盤から不穏。
静かな展開であるにも関わらず、真綿で首締められるような緊迫感が継続し、ほっとひと息つく間がない。
日本での公開が見送られたのはやむを得ないことだろう。
正視に耐えない幾つかの場面は目に焼き付いて長く尾を引くトラウマになりかねない。
が、人が宿す本性のグロテスクを視覚化したという点で高く評価できる映画と言っていい。
ここで呈された問題について、誰もが考えなければならない。
舞台は家。
そこに夫婦が暮らす。
夫は高名な詩人である。
夫は詩を書く。
耳あたりのいい言葉で紡がれる世界は美しく、多くの者を魅了する。
家に崇拝者らが詰めかける。
そして、その観念が導く先は、美とは真逆、破壊であり暴力であり収奪であり惨殺であった。
犠牲になるのは妻。
妻は観念とは対となる位置づけ。
実質的な存在であり、暮らしを育む母性を象徴し、生命を宿す者として未来をも象徴する。
理想主義的な観念に、未来の実質が踏みにじられていく。
皮肉な顛末は授かった赤子の末路に端的に表れている。
詩人は授かった赤子を高々と掲げる。
赤子は未来であり希望である。
詩人は顕示的に赤子を掲げ、群衆と化した崇拝者らに差し出す。
未来と希望が、文字通り食い物にされる。
映像のなかで実際にそうなるので、これは比喩ではない。
暴徒化した群衆は凶暴さを増し、家は潰える。
この家自体が、詩人が構築した観念であったのかもしれない。
メビウスの輪をなぞるように、何度でも創造され破壊されることが示唆されるので、つまりは詩人の幻想と幻滅を行き来していると見ることもできる。
そのメビウスを目の当たりにすれば、自身の在り方を問い直さざるを得ない。
どんな理想的な観念も生身の人間に宿った時点で、他の観点が失われ、おぞましいものに変質し得る。
わたしたちも知らぬうちそういった観念に従属し、その観念を盾に都合よく、実は欲望のまま未来を先食いして生きていると言えるのではないだろうか。
小さい部分で言えば、カバンや洋服といったファッションアイテムのように子どもを扱うこともそうであろうし、大きいところでは、環境破壊や財政赤字の未来世代への先送りといったことも同根の話と考えることができる。
未来や希望という観念を消費し弄び、実際には自身のエゴを優先し、未来や希望という実質を惨殺している。
グロテスクな人類の自画像を実写化した、と捉えればそれは功績以外のなにものでもないだろう。