消費するだけの側にいるのが苦痛で。
それが働きたいと思った理由なのだという。
富裕層が集う土地柄だからだろう、わざわざ勤めに出ずとも暮らせる女性の方が圧倒的に多いように見える。
その女性も同系統に映ったし、実際、背景など伺えばその通りに違いなかった。
働かなくても何不自由なく毎日が過ぎるならそれでいいではないか。
日々額に汗する側からすれば首かしげるような話かもしれない。
果たすべき責任が課せられて、気分がどうであろうがそれを一定以上のクオリティでこなし続けねばならない。
問答無用の世界であり、おざなりでは済まされない。
一日終えれば疲労がずっしり肩にのしかかり精根尽きる。
そして気づけば次の一日が間をおかずにやってくる。
そんな毎日より、優雅に家事して社交して、どこに行っても大事に扱われる暮らしの方が楽しいに決まっている。
そう思う人は少なくないはずだ。
が、その人は、それを苦痛と言った。
話すうちその人の聡明さが理解でき、働きたいとの動機にも納得がいった。
わたし流にまとめるならこういうことだろう。
消費だけならサルでもできる。
ヒトとして自身が何者であるのか、漠然とでもそんな問いが頭に浮かぶ知性にとって、サルなのにちやほやされることほど虚しいことはない。
なるほど、示唆深い。
目から鱗のような話であって、わたしにとってもひとつの気づきとなった。
わたしたちは仕事を通じて暮らしの糧を得るだけでなく、日々学び人として成長し尊厳を保つ。
だから仕事を欠けば、実は内に空虚が忍び寄る。
楽そうに見えて、ところがどっこい真相は、遮二無二仕事している方が遙かに楽しいという場合もあるようである。