どこか海外の街で過ごす際のちょっとした空き時間。
息子がこの日記に目を通す。
別々の時間、別々の場所で日記を読み、各自苦笑する息子たちの顔が目に浮かぶ。
過去のいろんな場面がありありと思い出されるのと同じくらいの鮮明さで、遠い先々の二人の様子がリアルに見える。
未来に生まれるその苦笑が見たくてわたしはせっせと日々のあれやこれやを書き留める。
親バカは日に日に進行し難治。
いつの日にかわたしは不在となるが、日記の行間に身を潜めようと日々企み、しかも子らの苦笑を見ようなど、親バカの野望は極度に不遜だ。
死ねば無に帰す。
他の有り様が思い描けないのでそうは思うが、無という概念自体が分かったようであってしかし実のところうまくイメージできるようなものでなく、「無です。以上」と簡単に済ませられるものでもない。
たとえば、とても大事な誰かを失った者は、無という話を受けつけることはないだろう。
亡くなったその人は、今に連なる過去という時間にありありと存在していた。
いまその姿は見えなくても、どこか別の時間に所在を移しただけで、どこかに必ず存在している。
だからまた会える。
わたしならきっとそのように考える。
再び姿を現すのではないかと思って、ゆかりあるすべての場所で待ってみるということをするに違いない。
昔の時間がそこに流れ込み、ひょっこり現れるのではないか。
そう思う気持ちを止めることなどできるはずがない。
しかし、再会は果たせない。
それはそうだ、と頭を切り替え次にはこう考える。
もっと遠いところ、こことは全く異なる時間、彼はそこに引っ越したのだ。
そして、そこで幸せに暮らしている。
ここで会うことは叶わないけれど、ふとした拍子、身近にあった者たち、思い出そうとしても思い出せないわたしたちの面影を、彼なりに感じることもあるに違いない。
そのように考え、引き続きありありとその人のことを想い続けることになると思うのだ。
そこに無が招き入れられる余地は一寸もない。
死ねば無と潔く思う一方で、生き永らえることに固執しているからこそ、日記など続けていると言えるのかもしれない。
そう思えば、ある意味、実にアニミズム的である。
最後の時の時、時間の流れが極限まで緩やかになって、無限に続く一大絵巻が立ち現れる。
その絵巻は日記の集大成。
時間の河口とも言えるその場所にあらゆる時間が集結し、出会った皆とそこで再会できる。
日記の行間を覗き込めば、そんな風に皆とくつろぎ嬉々とするわたしの姿が認められるはずである。
苦笑する君たちの顔が真上に見える。