KORANIKATARU

子らに語る時々日記

言葉が端役になる時代

代わり映えしないような毎日であっても目を凝らせば濃淡があって、「濃」の部分をわたしは日記に書き、家内は二万語の言葉に置き換える。

 

意識のなか痕跡を残した「濃」も書き留めなければ記憶の藻屑となって地の底に堆積するだけとなる。

 

だから日記は「濃」を採取しいつでも光当てることのできるアルバムのようなものと言え、後になればなるほど意味がある。

 

一方、家内の二万語は、鮮度が命。

録音しておいて、冷蔵庫から取り出しチンするみたいに聞けば懐かしいにしても、ライブ以外でそう簡単に二万語に耳傾けられるものではない。

 

つまり「濃」を反映する同じ言葉であっても、話すのと書くのとでは根本的に時制のベクトルが異なる。

 

話すことは今に連なり、書けば未来に連なる。

家内はいまここを謳歌し、わたしはいまここを採取し文字化して過去を未来に届けようと企てる。

家内は明るく、わたしはどちらかと言えば根暗の部類に振り分けられるだろう。

 

そのように知ってか知らずか、誰もが各自の時制のなか身中駆け巡った「濃」を言葉に置き換えて発することになる。

 

最近ではもっぱら画像が飛び交う。

そこで言葉はフリガナみたいな端役を担うのみであるから実にお手軽。

時制については両刀使い。

今と未来の両方に訴求し得るから人気博すのも当然だろう。

 

昨晩、古色蒼然とした夫婦ふたりは、食事しつつiPadを眺め、幾つものインスタをスクロールしていた。

 

一言にすれば偏りの大きい玉石混交。

趣きある画像にぴったりそぐう言葉が添えられてその「濃」を際立たせているセンスの方もあれば、その正反対、空虚な何かに屑みたいに薄っぺらい言葉を乗せてこれでもかというくらいに寒々しいものも少なくなかった。

 

お手軽な分、その人物の本質があからさまになるから油断ならない。

言葉の薄着が無思考を露呈し、ぱっと見ておおよその人となりが判別でき、それだけでなく過去にさかのぼってその判断を裏付けることができる。

 

言葉が端役になれば何もかもが薄くて軽く、「濃」を汲み取ることがますます困難になっていく。

これは人にとって悪循環以外の何ものでもないように感じられる。

 

一部センスある人は別として、わたしたちのように愚昧な人間はまどろっこしくても言葉を手放すべきではないのだろう。

これからも引き続き家内の二万語に耳を傾け、日記をほそぼそ続けようと思った。

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「遠足」谷内六郎 1962