今日は仕事を終えたあと家内と待ち合わせし食事する。
かなり美味しい店に行く。
たったそれだけのことが一日の楽しみになる。
ふと考えた。
この歳になってまだ涸れぬ楽しみって何かあっただろうか。
子どもの頃は単純で、ドリフなど好きなテレビ番組を観るだけで楽しく、そこらへちょっと遠出するだけでも心躍った。
いまの時期で言えば、祭りもそうであるし、単に夜店が並ぶ路地を歩くだけでも楽しかった。
いま、その程度を楽しいと思うことなど全くない。
年追うごとに楽しさを感知するセンサーは鈍麻する一方で、ほぼすべての事柄が平坦な日常の域に収まってしまう。
たしかに映画を観るのは好きであるし、風呂に入るのも好きであるが、それでわくわくそわそわすることはない。
無為な時間よりはましという程度に過ぎない。
その他、かつてはお酒を飲んで過ごす時間も楽しかったが、いまは飲む日もあれば飲まない日もあり、もはや日常を彩る主役の座にはない。
漫然と過ごしていると楽しいことが減っていく。
これが加齢の本質なのかもしれない。
あとは死へと向かって、無感覚の繭に覆われる。
そう思えば、楽しいことは死の対極にあって至極貴重と直感できる。
楽しみを失うことは死を招き入れることと同義であって、だからやすやすと手放してはならず、老いてもその季節ごと積極的に楽しみを探した方がいい。
それが生きることの特権であるとも思えてくる。
今日、なんだかとても楽しく、遠い過去に置き忘れていた感覚が呼び覚まされたかのようである。
せっかく生きているのだからもっと楽しくてもいいのではないだろうか、そう思う。
モノトーンに染まる日常にわんさか楽しみを引き戻さなくてはならない。
楽しいことを高らか数え上げるようにして毎日を生きる。
そう心がければ干からびた水路にまた清流が戻って若返り、だからより一層楽しいという好循環が訪れるにちがいない。
やはりどうやらそれが正しい。
さあ、楽しもう。