やたらと忙しく、夜に連絡が入り朝にも入る。
まるで火の弾でも降ってくるかのよう。
かつて若い頃ならそう感じ身を竦め忌避感を募らせた。
が、いまは認知を変え大いに喜ぶよう心がけている。
忙しさは存在意義のバロメーターのようなもの。
それだけ頼りにされ必要とされている証拠であり男なら意気に感じて当然という話である。
それによくよく考えれば、それらすべては火の弾どころかいずれ花咲く恵みの種子であって将来の糧として実を結ぶ。
だから嫌がるなど不遜に過ぎる。
忙しい様子を見て老いた父はわたしを気遣って言う。
何もそこまで。
食える程度で十分ではないか。
そんな言葉を真に受けて、もしほんの少しでも仕事で無気力相撲を取ることあれば、その途端におとといおいでとなって用済みお払い箱となるのが落ちである。
かくして来る日も来る日も自身の土俵に這って出て、ここが居場所なのだと自らに言い聞かせ火の弾を愛で喜び、土俵を割らぬよう踏ん張って夜の晩酌まで持ちこたえる、という日常を過ごすことになる。
いろいろたいへんではあってもしかし、実はこの土俵、案外捨てたものではなく様々な可能性の芽が息吹く豊穣の地であって住めば都。
だから、食えればいいではないかといった優しい言葉をわたしが息子たちに言うことはおそらくこの先一切ない。
遠くない将来、各々土俵入りする息子らは、まず間違いなくわたしなどよりはるかに険しい道を好き好んで行くことになる。
親が気遣い怖気づいている場合ではなく、そこをああ楽しと闊歩する息子らと同じ出力で吠えて燃えるくらいでやっと調和が保たれるというものだろう。
誰か他人の土俵で踊るのであれば話は全く違ってくるが、いずれこんな考え方が参考になることもあるに違いない。