エビピラフが雲井窯で炊きあがったと同時、家内が弁当箱に詰めてくれる。
特製テールスープの支度はすでに整っている。
二男の朝食はそのエビピラフをベースにしたヘレカツカレー。
がつがつと食べる二男の様子を横目に、わたしは弁当を引っ提げ家を出た。
8月に入ってから夏休みムードが漂い、日々ゆるい感じとなっている。
ちょっとした用事はあるものの弁当がメインでそれを食べに出勤しているようなものであるから、遠足に近い。
軽くこなしてあっという間に昼。
待ちに待った弁当の時間である。
息子の朝食よりエビの数がかなり少ない。
そう感じられたが美味しく、テールスープも熱々でこれまた美味しい。
このようにほとんどストレスのない毎日であるが、そうであっても時折は負の波濤を避けられない。
言いがかりや不平不満や難癖を真正面から受け止めると草臥れ果てる。
かといって直接相手に山を返すと火に油を注ぐことになり延焼するのは火を見るより明らか。
掻けば掻くほど炎症広がるような話であるから、じっとこらえてやり過ごすというのがまずは正しい処し方ということになる。
しかしこちらも人間。
内に投げ込まれた負の燃料は、貯め込むと毒になる。
それで最近考えた。
誰を悪者にして済ませるか。
間接憎悪というのはどうだろう。
罪を憎んで人を憎まず、といった話に近いかもしれない。
当の相手を直接憎むのではなく、関係する他の人に矛先を向ける。
これだと直接相手に山を返すことにはならず、間接的であるから積極的な憎悪とならず、負の燃料を排出できる。
たとえば、誰か不快な人があったとして、その人をとやかく思うのではなく、原因と結果の法則、その親に責任があるのだと考える。
当の相手の行為と悪意を咎めて恨み辛みの的にするのではなく、もしその親が少しでもこうしてくれていたら、ああしてくれていたら、とその親の不作為と善意の不完全を嘆く。
明確に欺瞞的であり歪曲的であるが、溜飲下がらなくもないのでこれで曲りなり丸く収まるなら御の字ではないだろうか。
しかしこのようなすり替えは何も特殊なことではなく日常茶飯で頻発しているのかもしれない。
水が低きに流れるように怒りの矛先は弱い方に向く。
だから無意識のうち自分の力量という事情に合わせ牙むく対象が恣意的に選択されるということは十分あり得ることだろう。
意識的なすり替えであれば冤罪と分かっているから怒りは減衰するが、無意識にて行われてかつ相手が弱ければ遠慮会釈なく怒りは増幅するのかもしれない。
思いがけない人から激しく憎まれる。
そんな目に遭ったら、とんだとばっちりの八つ当たりが背景にあるのではという視点も必要だろう。