金曜夕刻、仕事の最終地点は上六。
さて、どこで食事を済ませるか。
頭に浮かんだのは阿倍野の正宗屋。
その一択だった。
地下鉄谷町線に乗り天王寺駅で降りまっすぐ向かった。
幸いカウンター席に空きがあって、わたしは一番奥に陣取った。
わたしが腰掛けるとまもなく観光客風の女子二人が隣席にやってきた。
わたしが注文した定番どころの品を女子二人が興味深そうにのぞきこんでくるので、愛想よく正宗ガイドでもしようと一瞬思うが、知らぬ顔をして引きこもることにした。
そもそもそのための正宗屋。
正宗屋のカウンターにあっては、掛け値なしの自身と向き合える。
瞑想するよりジョギングするより登山道を歩くより意識が透徹するから、無駄話などして混濁している場合ではなかった。
このところ早起きのリズムが戻って、昔同様、朝一番から全速力で仕事をこなすようになった。
前倒しで仕事が片付くから気持ちが楽になる。
だから継続的にこの「楽」な在り方を選ぶことになり、勤勉さに拍車がかかって相乗効果、気持ちもどんどん前向きになっていく。
根が真面目。
だから、のんびり楽して過ごすと後ろめたさを感じる。
こんな楽な暮らしがずっと続くはずがないといった悪い予感がつきまとい、カラダは楽なのに何となく不安という「しんどい」状態を免れない。
カラダに多少の負担がかかってもココロが楽である方が好ましい。
それゆえ今日も明日も明後日もまだ暗いうちから始動し業務に取り掛かり、終業となればひととき荷をおろして一息ついて、後は帰ってねぐらで朝を待つという日常が繰り返されることになる。
この営為を早送りにして俯瞰すれば、まるで首に縄でも結わえられているように見えるのではないだろうか。
毎日出勤し仕事をこなしきちんと家に帰る。
縄につながれているのでなければ、起こりえないような話である。
この縄を断ち切って、好き勝手に走り出せば一体どこに行き着くのだろう。
想像しようとしてみるが、思考は進まず漠然とした罪悪感のようなもののみが生じる。
飼い主の意に染まぬことは考えぬよう、わたしたちはあらかじめプログラムされているのかもしれない。
こうしてわたしたちは手も足も首もどこも繋がれている訳でもないのに、野生動物がするように駆け出したり羽ばたいたりすることはなく、延々と定められた日常を送ることになる。
そしてやがては年老いて、お役御免となるときを迎える。
ここが一種の大審問のときと言え、晩節の幸不幸の岐路となるからあらかじめ覚悟しておかねばならない。
多少なり功成り名遂げお金も残してというのであれば、無用となっても尊厳を保てるだろう。
そうでなければ、十中八九、無念を余儀なくされると考えて間違いない。
力尽きたその時点で、もはや無用であるからそのときを境に人間関係は一変する。
稼ぎもないから厄介者として疎まれるだけであり、庇護者の虫の居所が悪ければ足蹴にされてそれが世の習い、必ずその蹴りに見境がなくなっていく。
そうなったとき自身を支えるものはなんだろうか。
無力の無念を噛み締めつつ、尻すぼみとなって後は果てるだけという自身に力を貸してくれるものが、信心以外に何かあるだろうか。
せめて鎮痛剤。
いま現在であっても、嫌なことで思い詰めているときより、よき思い出にふけってニヤニヤ過ごしているときの方がはるかに幸せ。
世を恨まず誰かを憎まずとも済むようにするには、その思い出の有無が決め手になるのではないだろうか。
鎮痛剤を仕込むのは早い時期からの方がいいように思う。
将来の無念に耐え得るよう、大事な思い出を今から瞼に刻んでいつでも再生できるようにしておくこと、それが最大の自衛となるに違いない。