何度も前を行き来してきたが、ずっと素通りしていた。
この8年は一体何だったのだろう。
この夜、事務所を後にしどこで夕飯をとるか思案しつつ歩いた。
いい店との偶然の出合いを期待しいつもと違う道順を辿った。
結局、めぼしい店はなくまもなく駅というところ。
本当に何気なく前を通って、そのまま通り過ぎてから、立ち止まった。
夕飯の場所を探すという積極的な気持ちがなければ一生そこの引き戸を開けることはなかっただろう。
店の名は日本盛。
場末感のベールを隈なく被って、日頃眼中には入らない。
だから「店」としてこれまでわたしは認識することがなかった。
中も同様。
仕事を終えた勤め人風の客が何人か点在するのみ。
金魚鉢のなかのブクブクみたいに、場末感がただただ静かに湧き出し続けていた。
カウンターに腰掛け目に入った値札に驚いた。
湯豆腐130円、ハムエッグ200円、きずし300円、おでん300円で日本盛は280円。
まるで大人の駄菓子屋。
昭和の古き良きあの時代、子どもだったから居酒屋が既視であるはずがないのに懐かしい。
わたしと相性バッチリ、そういうことなのだろう。
軽く一杯ひっかけて席を立つ客の払いは軒並み低額。
700円やら800円やらで千円を超えない。
だからそんななか、甲斐甲斐しく働く店のママに好意寄せていると思しきおじさんが次々あてを頼んで何杯も飲んで、しめて2500円となったときには、その大判振る舞いに驚いた。
おまけに、釣りの500円をチップとしてママに献上するのであるから、おじさんの仕事は景気よく大いに繁盛しているに違いなかった。
「次は金曜に来るよ」と言い残し、おじさんは上機嫌で去っていった。
人間誰だって楽しみの一つや二つあっていい。
おじさんの暮らしに花を添える日本盛でもあるのだった。
続いてわたしが勘定を払う番となった。
告げられた額が3390円であったから、まるでびっくり日本新記録。
誉れある最高記録に轟二郎のごとくわたしは心中で快哉を叫んだ。
刺し身が美味しく気軽に飲める。
引き戸を閉めて往来に出て、笑み満面。
いい店が見つかったとわたしはこの出合いを心からことほいだ。
正宗屋を目指し今後わざわざ阿倍野や立花に出ずとも済む。
もちろん正宗屋の方が美味しいが、日頃はここで何ら申し分ない。
まさに求めよさらば与えられん、である。
実にわたしに似つかわしい。
無口に佇む常連客となって、そんなわたしは十中八九不気味に映るだろうが、心の中では笑っているのだとこの場を借りて明かしておこう。