KORANIKATARU

子らに語る時々日記

中学受験と勝ち負け演出1

甲陽出身の友人と話していて、学校の雰囲気が星光とずいぶん違うのだなと印象深かった。

甲陽は星光とは比較にならない程、難しい。
ここ阪神間では甲陽は巷間話題にあがっても、星光などちょっと顔あからめて、それ何?と首傾げられる存在だ。知名度、偏差値、好感度、どれをとっても、甲陽が遥かに上である。

しかし、甲陽の近接地には、灘がある。
賢い連中の席次1番から170番までが灘に入り、171番から340番までが甲陽に入る、そのような恐ろしいほどの単純図式で見られることもあり、当の甲陽生もそのような見られ方を意識するという。

「灘を目標としていたのに」というこだわりが捨て切れない層は星光にも山ほどいて、進学塾の巧みな「勝ち負け演出」の結果、星光に入ってさえ敗北感を引きずる子が出てきてしまう。
甲陽だと星光に輪をかけてその傾向は顕著なのではないだろうか。

塾の「勝ち負け演出」も、ある種の方便で、あながち悪いとは言えない。年端も行かない子らのモチベーションを最大化させるには、大真面目にそういった序列意識を植え付けなければならない面も理解できなくはない。
もちろん、早熟で感性豊かな子の場合、そのような価値の押し付け、旗振りには、白けてとてもついていけないということもあるだろう。しかし、序列の価値観の連呼には疑義持つ子でも、当の自分の勝ち負けには敏感にならざるを得ない。なにしろ、子供である。

灘は別格にしても、甲陽も頭のいい男の子だらけで、というより間違いなく全員頭が良く、頭のいい子が当然そうであるように、自律的かつ合理的だ。
甲陽に入る時点ですでに将来の目指すべき方向性がしっかり見据えられている。
甲陽の教師は楽に見えるという。進路指導も勉強の指導も、ちょっとした添え物程度の役を果たすだけで、十分に機能する。
強いボクサーのセコンドは口出しせず黙って見ていればいいのである。

だから教師も淡々、生徒も淡々とした雰囲気だという。
まさに、君子の交わりは淡きこと水のごとし。

だからなのか、卒業後も「甲陽」という結びつきで頻繁な行き来はなく、「甲陽でも京大でも一緒だった」という結びつきの合わせ技がないと交流が発生しづらいという。中学と高校の校舎も別々なので学年を横断するような付き合いもあまりないらしい。

星光のように、中1から高3まで同じ場所にあり、入学した途端、学内の研修館で共同生活したり、毎年のように黒姫山荘や南部学舎で寝起きともにする生活を過ごすのと、結びつきの濃さが全く異なるようだ。

進学実績に現れる数字は甲陽が圧倒的に凄いのだろうが、しかし、「凄い」という塾や進学校が放つ勝ち負け幻想もほどほどにしないといけない。

星光も進学校のはしくれだから、内部には競争原理が持ち込まれる。「勝ち負け演出」が見事に機能し、生徒はそれによって大いに動機付けられる。
その中で、一通りの決着はつき、その結果をそれぞれ受け止めつつ職業人生に入っていくわけだが、そこで、あれは一体なんだったのだろうと、振り返るわけである。
東大だろうが京大だろうがどこだろうが、星光出身者は、どこであろうと役割を得て何不自由なく能力を発揮し、元気溌剌と世間で活躍している。
これは甲陽も同じだろう。

つまり、「勝ち負け演出」と無縁の立場に置かれて初めて、進路選択のあれやこれやは、別にどっちだってよかったのだという気付き方をする。

A君は、灘へ行こうが甲陽へ行こうが星光に行こうが、そこから東大へ行こうが京大へ行こうが、阪大でも早稲田でも慶応でも、どの経路を通ったところで、ちゃんとした職業人として身を立てることができたに違いないのだ。

灘に行って東大に行こうが、星光から早稲田に行こうが、前者が後者の100倍幸福というわけではない。全く関係ない。
しかし、勝ち負け演出に洗脳されている当時は分からない。
受験生にとって、前者はクールで、後者は他山の石となる。
受験生は、実のところ何ら大勢に影響しない、将来を通じて大した差を生む訳ではない「微細」な差異を針小棒大に捉えてしまう視野狭量な環境に置かれている訳だ。

かなり勉強するグループとそうでないグループが大きくどこかで分かれるだけのことであり、前者グループは大体同様の職業的達成を得るという道を辿る。
その到達点は人それぞれであるし、例外も数々あれど、まあ、大雑把に一つのカテゴリーとして括ることができると言ってもいいだろう。

では分かれ道はどこにあるのだろう。

最も学習効果の高い小学生高学年の時期に、進学塾でハードでタフな受験勉強に勤しんだかどうかが、その先の充実した職業人生と大きく関係するのではないだろうか。
もちろん、誰にだって当てはまることではなく、塾など無縁、中学受験など知ったこっちゃないという子の中にも、八木君のように恐ろしいほど優秀な連中はいくらでもいる。大まかな傾向としての推測に過ぎない。

そして、その推測を更に一歩進めて、想像してみる。
バリバリの進学塾から甲陽を経て京大に入ったA君と、塾には目もくれず公立高校時代に勉強に目覚め京大に入ったA君は、同じA君で合格大学も同じであるけれど、どこかに差がある、同じA君でも前者の方が能力の引き出しが多い可能性がある、と考えることはできないだろうか。
難関中学の入試問題が放つ「意表突くような豪速球と魔球のような変化球の切れ」を目の当たりにすると、難関大学の入試問題など「速いけれど標準的な真っすぐの球」に見えないこともない。
難関中学入試に備えて培った「アクロバット空中戦」のような戦闘能力は、大学入試では試されない。
だから、大学入試という土俵では同じ結果が出せても、前者のA君と後者のA君では、培われた能力に差があっても不思議ではないと考えるのである。

つづく。