KORANIKATARU

子らに語る時々日記

人の大小

ロイヤルホテルに到着した。30分はお待たせしたであろうか。
喫茶ラウンジで待つ経営者の姿を見つけ、素早く斜め後方に近づき、遅刻を詫びる。
言い訳はしない。

時間に厳しい方である。
蛇に睨まれたカエルのように身を固くし、反応を待つ。
悪意のある遅刻ではないと判断していただけたようだ。
席を勧められる。
正面ではなく直角に対して座る。
正面だと凄みに気圧される。
少し斜めに向き合うくらいが、威光の直射を避けられてやや過ごしよい。

かつて、男らしさが全てやでと教えを下さった方である。
仕事について、どこまでも厳しいけれど、同時に、利他的な思想が根本にある。
70歳を過ぎ、いつ死んでも大丈夫との気構えで一分の隙もなく毎日を過ごされている。
カラダの調子が思わしくなくても、絶対表に出さない。
平素通りの強い威厳が漂う。
こんな雰囲気の方は、生涯お見かけしたことがない。

仕事の指示を受けながら、その存在感、格のようなものを磁力のように感じつつ、それについて考える。

広いラウンジの隅の方で、こちらを凝視するおっちゃんがいる。
暇を持て余しているのだろう。
ちょっと違った空気を放つ我々の席に興味を持ったようだ。

ちょうどよい、視線の置場ができた。そのおっちゃんを見つめ返す。
目が合う。じっと見る。
おっちゃんは目をそらし、コップの水を飲む。

人の精神性にはとてつもない個人差がある。
見習いたくなるよう人格者、心洗われるような人徳の方がいる一方で、一体何が悲しくてそこまで品性下劣でケシ粒のように小さいのだという男がいる。

利他的に振る舞うのが最低限のマナーであるボランティア的な立場であっても、ちょっと気に入らないとミクロのへ理屈で主婦に食ってかかり、ああだこうだと公私ないまぜの筋の通らない嘘八百で役目を逃れ、主催者に対してだけは尽力するポーズをとる輩。
一体それで何が嬉しいのだろう。
やるならちゃんとやればいいではないか。
周囲は呆気にとられ互いに目を見合わせ苦笑するだけである。

そして、子が通う小学校の社会の先生は、授業をまともにせず独りよがりな訓話を垂れ流し続ける。
どれもこれもこの世の果てのような薄っぺらな話であり、生徒達は無言でアホ、ボケと突っ込みつつ生あくびをかみ殺している。

その無益な雑談のせいで、時間が足りず平安の次に明治に飛んだと言う。
鎌倉室町や江戸時代について教える以上の値打ちがその教師の話にあるとは思えず、しかも塾批判が口癖だというから開いた口が塞がらない。
そんな戯けた話を聴かせに学校にやっているわけではない。

最近はその独身教師の性的妄想のツボなのかどうなのか、侵略戦争時に兵士に蹂躙される女性達の話を延々すると言う。
細部の描写について子に聞いたが、明らかに性的な邪念がにじみ出ている。
学校へ電話せねばならない。

指示受けた内容をメモにし、確認を仰ぐ。
仕事の話の合間に、示唆に富む数々の教えを受ける。
薫陶を受けるとはこのことだ。

そこらをガニ股で風切って歩く即席大物風情とは全く異なる。
礼儀正しく、静かな振舞いだ。
がちゃがちゃと音鳴り響くようにお金が儲かって経済的背景のもと、その雰囲気が出ているのでもない。
品があり慎ましやかである。

単にカラダが強く、経済的に成功しているというオス的な強さだけがその磁力を為しているわけではなさそうだ。

おそらくは、想像を絶する、心服せざるを得ない有為転変に満ちた個人史が背景にあり、そこをくぐり抜けてきた重みのある自負心、その過程で血肉としてきた仁徳の心が、奥深いところから静謐に放射されている、そのようであるに違いない。

そのようでありたい、と心から惹きつけられる存在である。
他者に対し、本当に大事なことは何か、という生きる意味を身をもって伝えるような在り方である。
生きた結果として、そこに至る。
何らかの導きが得られる出会いこそ、人生の醍醐味だろう。