KORANIKATARU

子らに語る時々日記

ちょっと大丈夫なのだろうか?

ひんやりとした風が懐かしくなるような陽気の中、市内を歩く。
どこかの宗教学者が自らの新刊について喋っているのをpodcastで耳にする。

次の一説で話を巻き戻す。
欧米、特にフランスでは親という概念がない。
子ができて嬉しい、子育てが楽しいという観念がない。
だから子に厳しい。
親として子を思う愛しさや慈しみは日本独特のものである。
親としての感慨にふけるなんて国は日本だけ。
だから親分という言葉は日本にはあるが外国にはない。

そんなような話だ。
傾げた首が戻らない。
友達の方の島田に真相を聞いてみたい。
長年フランスにいたから彼なら真偽がジャッジできるだろう。
(その学者の説が正しいなら丸坊主になってもいいぞ)

このご高説はちゃんと検証されたものなのだろうか。
仮説にしても、妥当性など一切導き出せないような不出来な話ではないか。
わぁたくしのくにゅでゎ〜といった類いの与太、誰も知らないと高を括って適当なことを思いつきで喋っているとしか思えない。

だんだんこの宗教学者の話が胡散臭いものにしか思えなくなってくる。
お勉強はできるし知識はたくさんあるけれど、人間理解を欠いているので、自分が何を喋っているのか、それを相手がどう感じるか見当もつけられない。

そして、肩書き主義の国だと、このようなエセご高説が、ふむふむなるほどとまかり通ってしまう。
優秀さには定評あるはずの聞き手が話の流れのまま感心する素振りを示し、それを囃子太鼓に学者はさらに高らかにのたまう。

気を付けないとけない。
話す事柄がことごとく変だ。
違和感しか感じない。
それらしい学位やら肩書きがあっても、それはマトモさとは相関のない要素であるようだ。

話が宗教と近所付き合いに及ぶ。
セミナーなどに誘われたら拒絶するのではなく、気軽にちょっとのぞけばいいのですよ。
距離を置くから問題がこじれるんです。
監禁されたりなんてめったにあることじゃありませんよ。

聞き手は引き続きなるほどと合いの手を入れる。

気は確かか。

ちょっとのぞいて、いいお話聞けました、ではごきげんよう、で済むとは思えない。
一度誘いに乗れば、次は更に断りにくくなるに違いない。

学生の頃、先輩と二人切りになったとき、その手の宗教勧誘を受けたことがあった。
もの凄いプレッシャーを感じた。
クリスチャンだと反射神経でかわした。
確かに、中高時代、食前の祈りでたまにアーメンと言っていたのでまるっきりのウソではない。

もし興味本位で気安く誘いに乗っていたら、気の重いプレッシャーを受け続けたか、もしくは違った種類のブログ、例えば神々に語る時々日記を書く人生となっていたかもしれない。

そんなことは一度ではなかった。
ある時は女子に日曜日に教会に行かないかと誘われた。
プロポーズされた訳ではない。
何かありがたいミサがあるということだった。
これも悩んだすえにドタキャンした。
ミサに行こうかどうか悩んだのではない。
どう断ろうかとその理由を悩んで思いつかず、それで待ち合わせの場所に行かなかった。
もし行っていれば、チャペルのおじさんとでもあだ名されるほどの敬虔な信者となり神に純潔捧げ君たちには出会えなかったかもしれない。

誰にも一つや二つ、そのような誘いを受けた重たい思い出があるはずだ。
それを気軽に行けばいい、なんてどういった了見なのだろう。

少し奇異に感じる人や場に対しては、いちいち面倒だけれど、ちょっと大丈夫だろうかというフィルター通して判断することが不可欠なのである。