KORANIKATARU

子らに語る時々日記

父親の居場所1


西九条大福湯でひとっ風呂浴び、石鹸の香りと日の光いっぱいの脱衣所でしばし忘我の境に入る。
私には夢がある、と一人空想を巡らせる。

いつか大学生となった我が子が里帰りし私を訪ねてくる。
午後明るいうちから連れ立って銭湯で汗流し近場の酒場で絶賛される品々を肴にぐいぐい飲みかわす。
長男と二男、二人揃えば奇跡の出来事、せめて一人ずつでも寄ってくれれば嬉しいことだ。

うっとり薄ら笑いのまま銭湯を出る。

同時に女風呂からおばあさんと幼稚園児くらいの少年が出て来た。
少し離れて並んで歩くような格好となる。

少年は饒舌だ。
目に付くものすべて指差し、クルマだ、自転車だと祖母に話しかけ、路地見つければ、この道で帰ろうと祖母の腕を引っ張る。
喋り止まない少年の様子がほほ笑ましい。

信号待ちで、何の話の脈略からか少年が威勢良く祖母に言った。
「ずうっと前、おれ、パパに会ったことあるで」

少年は下町で祖母と暮らし、母は日曜も仕事に出ている。
父親とは遠い昔別れたきりだ。
そのような生活の様子が浮かぶ。

父親から音沙汰はない。
しかし、「パパに会ったことあるで」と祖母に力込めて話す少年の胸には良き父親像が刻み込まれている。


そろそろ私も子離れする時期かもしれないという考えが浮かぶ。
父たるもの、子にべったりというのも善し悪しである。

身近に接し続けると、逆説的だが、父たるものとしての存在が消える。
そこらのおっさんの一人という感覚が勝って、誇るべきかもしれない眼前の父性が覆い尽くされ、その本質が見えなくなる。

世間百万人の男子同様、小言の対象となるような凡庸極まりなく風采あがらない小人物と化してしまえば親しみというお目出度い話ではなく、子に伝えるべき核心が骨抜きとなりかねない。

それは必ず父から子へ伝えなければならないものであるが、これはどうやら言外でしか届かない性質のもののようである。


「一命」という映画を観て、海老蔵という表現者の存在感、所作の美しさと力強く佇む姿にただものではない凄みを感じたのだが、しかし同時に、ワイドショーでヘラヘラ笑う姿が小バエみたいに頭をよぎり続けとても追い払えず、結局、映画に魅了されるよりも、世間を賑わせた俗な話を思い出すばかりとなってしまった。

惜しいことである。


始発の神戸線アルペンハット被って毎朝通勤する弁護士先生がいる。
70歳は優に越えているだろうが、一分の隙もなく朝一番から緊張感みなぎる程の集中度で書類に鉛筆走らせている。

このような姿は周囲にも好作用を及ぼすものだろう。
少なくとも私自身は、襟を正すような気分となるし、高齢となってもそのようでありたいと望む具体的でリアリティのあるイメージを得ることができる。

例えささやかな領域であっても、余人を持って代え難い存在として活躍できればこれこそ男冥利に尽きる。
用もなくブラブラウロウロするしかない余生は思った以上に肩身狭く息苦しいことに違いない。

老いてなお一角の人物として仕事要請される能力の方がお金よりもはるかに重要であろう。

もちろん、知的スペシャリストだけが全てではない。
毎朝6:30、氷屋のおじいさんが軽トラ横付けし熟練の技で巧みに氷を切り分け、顧客店舗に届ける姿を事務所前で目にすることができる。
そうでなければならいよな、と私は素直に敬意を抱く。
男にとっては仕事こそが終の住み処となるのである。