KORANIKATARU

子らに語る時々日記

黄色いシャツ着た無口な男


10月31日の夜10時過ぎ家族4人が勢ぞろいしたので、ケーキをテーブルに出し13本の蝋燭に火をともした。

ちょうど13年前のこの日の昼休み、家内の実家近くにあるMUC珈琲にて二人で食事し、そして仕事場まで家内にクルマで送ってもらった。
予定日はまだ先であった。

夜の10過ぎに帰宅すると家内の実家から電話がかかってきた。
家内が産気づき病院にいる、すぐ駆けつけて下さい、ということだった。

電車に乗って真っ直ぐバルナバ病院へ向かった。
ちょうど家内にもらったばかりの黄色のシャツを着ていた。
このシャツは13年経っても丈夫で長持ち、今も健在である。
先日、鷲尾夫妻と家内伴い志津鮨で食事したときにも着た。

バルナバ病院に到着したものの誕生まではまだ間がある様子で時間を持て余した。
待合の椅子でじっとうずくまるように座ったり、落ち着かなくなって辺りをブラブラ歩いたり、といったことを繰り返した。

11月1日の朝5時過ぎ、長男の産声は日の出よりも早かった。
家内の息む声が止み、代わって長男の泣き叫ぶ声が待合の廊下にまで響き渡った。
その旋律は今もって私の耳の奥に残っている。

それはまさしく私の人生が大きく転換していく号砲であった。


一並びの日に勝る縁起の良さはないということで、11月1日をピークに仕事が立て込んでいた。
全精力を仕事に注ぎ込む一週間を過ごし、昨日午後4時過ぎに全てのタスクを無事に完遂させることができた。

格別の解放感に浸りながら電話し、正倉院展からの帰途であった家内と合流する。
秋晴れの奈良を十分満喫できたようで機嫌がいい。

一杯飲みに行きたい気分であったが家内が料理を作るというので諦め事務所近くの商店街を練り歩き連れ立って買い物をする。
野田の新橋商店街の食材は安く高品質であり、たとえば刺身など一つとってもここらで買えば、いくら高級と気取ったところでスーパーの刺身など臭くて口にできなくなる。
厳選しつつ、刺身を買いワインを買いフルーツを買い肉を買い、両手にずっしり食材抱え帰途についた。


ミヒャエル・ハネケの「アムール」という映画は必ず観ておかなければならない。

老境に差し掛かった夫妻が暮らす住まいが舞台である。
冒頭、消防団がその住まいのドアを破り、ベッドに安置される妻を発見するシーンから映画が始まる。
次のシーンから時間が遡り、そこに至る夫妻の日常が丁寧に描かれていく。

ある日、妻にちょっとした異変が生じる。
脳梗塞の兆候だ。
手術するけれど、失敗する確率5%のうちの一人となり、妻は半身不随となる。

入院を拒む妻を夫が介護する。
食事も排泄も入浴も手助けが必要となる。
夫とともに音楽家としてならした妻の尊厳が、加速する老いと身体的不自由さによって侵食されてゆく。
言葉もままならなくなり、もはや何を話しているのかさえ聞き取り難い。


普段押し黙ってベッドに横たわる妻が、その時は上機嫌で、言葉は途切れ途切れであってもとても楽しげに、夫に対し思い出を語る。
はるか昔、一緒にダンスした時の思い出だろうか。
ベッドの傍らに座る夫も一緒になってその思い出に呼応し深く相槌を打つ。
妻は言葉を振り絞って言うのであった。
とても楽しかった。

冷徹に老いを直視する描写が背景にあるからこそ、このような美しい場面が際立って突き刺さってくる。

互いの間には思い出だけが残り、そして、それも儚く消え去って行くのだろうけれど、「楽しかった」と言い合える確かな実質こそが人生の全てなのではないか。
そのように確信できるほど美しいシーンであった。


痛い痛いと苦しむ様子の妻のもとに駆け寄り、夫は子供時分のサマーキャンプの思い出を語って落ち着かせる。
次の瞬間、ふいに決意したのだろうか夫は枕で妻の顔を覆いその息を塞ぐ。

妻の死装束を整え、夫は一人ベッドに横たわる。
水の音が聞こえる。
この映画においては、水は暗示的だ。
生活の象徴であり、流れ去るものを暗喩している。

身を起こしキッチンへ向かうと、元気な頃の妻が食器を洗っている。
もう少しで片づくから先に靴を履いておいて、と妻は夫に言う。
支度した妻に夫はコートを着せ、妻に言われて夫もコートを取りに戻ってそれを羽織る。
そして、妻にいざなわれるかのように二人揃ってこの住まいから外へと出かけていくのだ。

妻に死装束施した後、夫も後を追ったことがこの日常的な一コマの描写から窺える。
それと同時に、死とのコントラストによって何気ない日常のかけがえのなさが見事に描かれているシーンとも言えるだろう。


最後のシーン、その住まいに娘が入ってくる。
どこも扉は開け放たれ、空虚なまでに空っぽだ。

消防団に遺体が発見され、すべてが終わった後で、娘はその住まいを再び訪ねてきたのだろう。

辺りを確かめるようにゆっくりと部屋を歩き、いつも父が座っていた椅子に腰かけ、住まい全体を見渡す。
父も母も、いない。
連れ立ってどこか遠くへ行ってしまった。
その住まいはもはや抜け殻である。

過ぎ去って戻らない無常の念の中に娘は佇むかのようであり、そして、観る者である私たちもその同じ椅子に腰かけ娘と同じ感慨に茫々となるのであった。


家内の運転でようやく家に到着。
ハイボールを飲みつつ、まずは序盤にアジとカンパチ、剣先イカで空腹を宥め、メインはどこかの有名なペンネと赤ワイン。
黄色いシャツをもらった当時、ウエストはまだ締まっていたが、いまや忍従の日々の果てその頃のズボンなど腰まですら入らない。
ウエスト縮めるための気が塞ぐ努力すりよりは、艱難辛苦の人柱せめて美味しいもの楽しみ良き思い出の年輪増す方がきっといいに違いない。