KORANIKATARU

子らに語る時々日記

ハネケの映画に魅了される


昨日は日がな一日クルマを運転していた。
運転しつつハネケの「隠された記憶」について思い巡らせる。

緻密に練り込まれおそらくは一義的に構築された作品世界の全景から、非本質的な要素を削りに削り凝縮させるとあのような多義的な光彩放つ作品となるのだろう。
観る者に能動的な思考を促して止まないだけでなく、提示された映像群が後まで尾を引く。
映像に添えられた数々のセリフがやがて蘇り、道しるべとなってそれらが意味するしかるべき着地点が、微かに見えてくる。

主人公のもとへビデオテープが送られてくる。
生活の一端が盗み撮りされている。
次々送られるビデオテープには、生家が写され、ある住居への道筋が写される。

主人公はそれが意図する悪意に思い当たるところがあった。
ビデオに写された住居を訪れる。

そこに現れた男が犯人だと主人公は確信している。
そして主人公は、自らの幼少時に端を発する「疾しさ」の感情に、直面することになるのであった。

映画においてビデオを誰が盗み撮りし送りつけて来たのか、その真相は明瞭には描かれない。

主人公の疾しさの情念が疑念によって倍加し、遂には悲劇が生まれ、更に倍加してゆく。

終盤間近のシーンが印象的だ。
憔悴する主人公は、自室に戻り部屋のカーテンを閉め切る。
真っ暗な中、ベッドに伏せる。

しかし、そこに出現するのは、疾しさの源泉とも言える、主人公にとっては胸張り裂けるような過去の映像だ。
内面のスクリーンに映るその映像から、主人公はもはや逃れようがない。
目を閉じようがそれは映写され続ける。
目を背けようがない。

そして、この映像を観る我々も、「見る」ことについての捉え直しを迫られるのだ。
ビデオを見る、というひとつの行為を取っ掛かりとして、その具体を追いながら、我々は自身の疾しさの風景を自らの内面に垣間みて、「見る」という行為は果たして一体誰が見ているということなのだと戸惑い、「私」のうちにある縁取りのない視点についてハタと思い当たるのである。

そしてラストシーン。
物語は収束するのではなくそこを起点として更なる思考を促してくるのであった。

作用の強度として、ハネケという監督が作る映画は、これはもう普通ではない。
時間があれば二度も三度も鑑賞したいところである。


帰宅し、家内が煮込んだおでんを肴にハイボール飲む。
学校から長男が戻るがよほど寒かったのだろう、長風呂の果てリビングにやってきた。
また、映画か、と長男が苦笑する。
ちょうど「セブンス・コンチネント」を流し始めたところであった。

オーストリアで実際に起った出来事を題材にした映画だ。
ある3人家族が心中に至るまでの日常が描写される。

何が彼らを死へ誘ったのか、その原因については明確に描かれない。
経済苦でも病気でもない。

彼らにとって世界は、虚しいノイズに満ち、味気なく色褪せ、閉塞し、冷え冷えとしている。
映像からそのように窺える。
主人公の脳裏を時折よぎる理想郷はこの世界には存在しない。

最期の時を前に、彼らは生の痕跡をことこどく破壊していく。
洋服を裂き家具をたたき壊し写真を破る。
そして持ち金の全てをトイレに流す。

娘が毒殺され母が大量の睡眠薬を飲み激しい苦悶とともに息絶えてゆく。
なかなか死に到達しない夫であったが服毒量を増しながら最期を迎える。
静まり返ったなか、漫然と流れていたテレビの映像がノイズ画像に変わり無機的な音を立て続けている。

ここで長男は絶句した。
えっ、これで終わり、だから、何?
先日一緒に観た「チャイルド・コール」のような、びっくりするような顛末の種明かしがない。

死に魅入られ死へ向かうベクトルを増す者らが辿る荒涼が、端的な映像で描かれている。
生死の境界の、死の入口の側の寒々しさを象徴するのであろうラストのノイズ画像はこの上ない不気味さである。

ああそうだったのかで終わって忘れる結末より、問いかけてくるようなこの写実の方にこそ惹き付けられないか。
長男に聞くが、彼は首をかしげたまま、まどろみ始めていた。