KORANIKATARU

子らに語る時々日記

毒まみれの虚構がもたらす恐怖を味わう


正月三ヶ日の最終日、いつもどおり始発で事務所に向かう。
今日は金曜日であると自らに言い聞かせ徐々に正気を呼び戻す。
飲めや歌えのお屠蘇気分は何かの間違い。
早起きして仕事に向かう、これこそが私自身が戻っていくノーマルな状態なのである。

将来、子をどんな職業に就かせたいかという話で盛り上がった際、医者だ弁護士だああだこうだという声のなか、財なすある経営者が言った。
自ら汗する労役に従事する点でそれらも所詮は現業者である。
それを目指させるなんて、苦労を宿命付けるようなものではないか。
人を動かし、人に奉仕させる、そのような事業者や投資家としての在り方こそ目指すに値する。

私からすれば見上げるほどの技能職も立場変われば見え方が異なるのである。

王朝さながらの組織のトップである我が身、はたまた唸るほどの大金を右に左にする金主である自分を想像してみる。

が、何も浮かばない。
そのような在り方が自分にインストールされていないと分かる。
第一、運転手がドア開ける前に自分でドア開けてしまうタチである。
玉座に鎮座し成り行き観戦するよりは、泥まみれ自ら動く方が性に合っているとしか思えない。
肉体的精神的に疲弊しようが、その方が不協和なく心安らかであることだろう。

カエルの子はカエル。
巡り合わせはいろいろあっても、まずは頑健達者な現業者であることを原点とすべきであろう。


家内の実家から電車で帰途につく。
1月2日夕刻の電車は人もまばらである。
前の座席に座る老夫婦に目が留まる。

山でも街でも両用できそうなトレッキングシューズを履き、それがジャケットによく合っている。
お洒落なカップルだ。
ペアルックではないけれど、身に付けるアイテムは同じものであり、夫婦思い思いに選んだつもりが、自然と似通った格好となっている。
同じ店で服を買い揃えたのかもしれない。

若いカップルのように引っ付く感じはない。
自然な距離で寄り添い腰掛けている。

電車が弁天町を出た時であったろうか、老夫婦が欠伸する。
夫も妻も全く同じタイミングの欠伸であった。
名場面は不意に出現するものなのである。

映画「東京物語」のとみと周吉のことが心に浮かぶ。
二人は東京まで子を訪ね、そして尾道に帰っていく。
その道中の二人の会話とラストシーンがしみじみと蘇ってくる。

大阪駅で席を立つ際、いついつまでもお元気で、と老夫婦に向け心のなかでつぶやいた。


墓参りの道中、高級外車を見つけてはウヒョ~、カッコイイ、と長男が声を上げる。
同級生の父親が外車マニアでその影響を受けたようだ。
機関車トーマス、電車、昆虫、野球選手、魚を経て、現在、外車にスポットライト浴びせる長男なのであった。

将来必ず高級外車に乗るのだとの決意を、そうですか、と聞き流しているうちは良かったが、かすか日本車を見下す風なトーンが感じられた。
バカ言うんじゃないよと教え諭さなければならなかった。

クルマというのは社会的なステータスを如実に物語る一面がある。
だから、その社会性は十分にわきまえた方がいい。

しかし、十分にわきまえた結果は、人それぞれである。
そして、答えは違って当たり前なのである。

自らの社会的信用の観点からプラスだと判断して高級外車に乗る人間もいれば、全く真逆、足を引っ張ることになると考え日本車を選ぶ人もいる。
はたまた、クルマに関心はないけれど高額納税するくらいならクルマくらいは贅沢しようかと仕方なく高級外車に乗る場合もあるし、そうであっても世間に誤解される方が困ると日本車を選ぶ場合もある。
もしくは経済的な余力もなく用もないのにそのような社会性をまとうだけのために、中古でも何でも掘り出しもの探して霞食いつつもその気になりきってエンジン蒸す人もある。
もちろん、君の友人のパパのようにクルマが根っから好きで、しかもお金もあるから生き甲斐みたいにクルマを何台も買う人もいる。
このように人それぞれなのである。

何であれ深層を看破しようとしなくてはならない。
日本車はダサい、などといった浅はかな考えはアホ丸出しでありそう言う本人が何倍もダサいと晒すだけなのである。

そして、クルマなど、よりよい人生を目指す上では、大した要素ではなく、思考の経済の観点からどっちでもいいようなものなのであると父は意見しておく。

もちろん、君がそれを欲するならば、その願望を抑圧して捻じ曲げることなく素直に目指せばいいが、君の知性からすれば実現した途端に色褪せる程度の次元のものであろうと示唆しておこう。


ミヒャエル・ハネケの「ベニーズ・ビデオ」はホームビデオに収められた豚の屠殺シーンから始まる。
主人公の少年ベンは様々な映像の蒐集家であり、部屋にはいくつものモニターが設置されている。

数々のモニターからの映像、鏡やショーウィンドーに映る世界など、それら引っ括めた「鏡像」がマトリョーシカ人形みたいに入れ子となって交叉し重なり、すべてが相対的で、本当らしさが薄れ切ったような世界にベンが生きていると暗示的に描かれる。

テレビやビデオから流れる安直で愚劣なフィクションの映像をなぞるように、ベンは現実をも虚構の一種として見ているかのようだ。

この倒錯は、何もベン特有のものではなく、あまりにテレビに慣らされた我々も、テレビを見るように現実を見るということに覚えがあるはずである。
例えば、球場で野球を見れば、カメラのアングルや実況中継、リプレイなどの編集にどれほど私達が影響を受けているか思い知る。
相当に重症な場合でなくても独り実況中継しつつ見るような人もいるに違いない。
私達は野球の見方だけに留まらず、生活の様式や価値観、善悪などについてもメディアの影響をどっぷり受けているのである。

常連となって通うビデオ屋で、ベンは何かの映像に食い入るように見入る少女を見かける。
両親が留守の際、その少女を家に招き、ちょっとしたいきさつから豚を屠殺するみたいにベンは少女を殺害してしまう。
この様子は録画されつつ部屋に設置されたモニターに同時進行で映し出される。
ベンは取り乱した風には見えない。

ベンが少女の血を自らの身体に塗りたくるシーンは、性的なイメージを喚起させると同時に、リアリティへの無感覚と、それと矛盾しつつも同居するリアリティへの渇望の表れなのだろう。

ベンは少女の死体をクローゼットに仕舞い、そして学校の宿題をこなすのであった。

帰宅した両親はモニターの録画画像から全てを知ることになる。
父が証拠隠滅を図る間、ベンは母に連れられ、エジプトで一時退避の時間を過ごす。

エジプトにおいてさえ異国に身を置く緊張感などまるでない。
リアリティだらけの場所にあって、ベンは普段同様カメラを通じ事物を捉え、カメラに向けにこやか話し友人にビデオレターを送る。

エジプトのホテルの一室で、母が突如泣き崩れる。
ベンの虚実綯い交ぜにリアリティが突如流れこんで来るシーンであるが、ベンは母がなぜ泣くのか見当もつかないようだ。

少女の行方は取り沙汰されずニュースにもならない。
両親の思惑どおり、事件は表沙汰とならずベン一家は何事もなくこれからも生活を続けることができる。

ところが、ベンが警察に届け出るのだ。
クローゼットに仕舞ったはずの少女の死体がなくなった、と。
ベンにとって両親の苦心惨憺などどうでもいいことであり、両親の思いなど関知することではない。

リアリティへと回帰するための唯一の「アイテム」がなくなった、そのことこそがベンにとっては一大事なのだった。

警察が自宅に踏み込む。
両親は立ち尽くし通報したベンを呆然と見つめる。
息子が遠く虚ろな世界に居着いてしまっていると、やっとそのとき両親は理解できたのではないだろうか。


人が百万回も殺されそして生き返るといった、いかにもそんなレベルの戯言、突飛奇天烈なイメージが、本当らしさがすっかり書き換えられてしまうほど大量に流布され続ける世界に我々は生きている。

イージーな虚構の垂れ流しがもたらしかねない具体的な恐怖をハネケが最も効果的な方法で教えてくれる。