KORANIKATARU

子らに語る時々日記

私達は誰とどのように過ごせばいいのだろう2


ミヒャエル・ハネケの「コード・アンノウン」は、聞こえない声、をモチーフにした映画である。
私達のコミュニケーションは一見成立しているようであっても、しかし、実は相手の声などこれっぽっちも聞こえていない。
コミュニケーションの不可能性を私達は思い知ることになる。

声が聞こえない世界、コード・アンノウンに私達は放り込まれている。
地球の自転の音が聞こえないように、私達は「声」を聞き取れず相手の真意から遮断されているのだ。

日常意識することのない心臓の鼓動を強調したかのような打楽器のサウンドが高鳴っていくラスト、皆がすれ違い、言葉は届かず、虚実は解けず混在したまま、皆目見当もつかないという印象を強烈に残して映画が終わる。

ラストのサウンドが耳に残って離れなくなる。
映画を見終わった後、私達は各々の内部で孤独に音立て続ける鼓動のどよめきを知覚することになる。


夕飯の支度を前に、ふと思い立って「ビジョナリー・カンパニー2」を手に取り、重要な箇所に傍線を引きページを折り曲げる。
名著であるからいつか君たちも読むであろう。
その際に、父が残した痕跡も何かの手がかりとなるかもしれない。

第5水準の人物という概念が登場する。
本書では飛躍的な成果を生み出すとびきりのレベルの人材のことを第5水準と位置付ける。

性格的な特徴として、次のような共通点が挙げられている。
物静か、控えめ、謙虚、無口、内気、丁寧、穏やか、目立たない、飾らない、そして不屈の精神。

そして第5水準の人物は「窓と鏡」を使い分ける思考の傾向を有する。
すなわち、成功すれば窓の外を見て外部にその要因を見出し、失敗すれば鏡を見て自らの中にその原因を見つける。

言われてみれば当たり前のように思える。
学術的に解析抽出されずとも、日本人ならだれでも知っているようなことではないだろうか。
しかしながら、我々は当たり前のことを何度でも際限なく忘れてしまうようなのだ。
だからこそ、私はその箇所を再読し、線を引き、折り目をつけて本棚にまた戻すのである。
大事なことが何であるのかいつでも君たちが「思い出す」ことができるように。


「ビジョナリー・カンパニー2」の第三章はバスの話だ。

飛躍を導くリーダーは、「何をすべきか」ではなく「誰を選ぶか」からはじめる。
つまり、誰をバスに乗せるかが決定的に重要であって、適切な人をバスに乗せ、不適切な人をバスから降ろす、これができるかどうかが成否を分かつ絶対的な岐路になるということである。

バスの乗組員を見分ける眼力やバス自体を見極める眼力までは高望みかもしれないが、せめて君たちが多くのバスに乞い招かれるような能力と人柄兼ね備えた人物であってほしいと願うところである。

万一、乗り込んだバスの中で不毛な消耗戦が始まって巻き込まれ、しかも降りることができない、となればこれはもう苦境である。
そのようなことがないよう、バスという概念についても慣れ親しんで日頃から意識した方がいいだろう。

この前一緒に見た「エスター」が乗るバスに同乗したと想像してみよう。
震え上がるに違いない。
座して死を待つかバスを乗り換えるか。

そのようなことである。


思い思いの音楽を流しながら、ベランダで長男と二男が代わる代わる肉を焼く。
私は常なる食べ役だ。
ワインを飲みつつ、長男のヘッドキャップをネットで物色する。
今週の日曜日、ラグビーの新人戦トーナメントは真新しいヘッドキャップで臨む。

と、二男の塾の先生から電話が入る。
家内が対応する。
家族一同聞き耳を立てる。
さあまた明日から奮闘の日々に戻っていかねばならない。

水泳後の心地よい疲労感にワインはよく合う。
長男がかつて私に言った言葉を思い出す。

パパはラッキーやっただけの人生ちゃうん。

そうなのである。
要するに、そういうことなのだ。
幸運に恵まれる人生を散々苦労して何とか手に入れただけのことである。
そしてまだまだ人生は続くのだろう。
きちんと目を配り、手入れする。
当分の間、幸運を手放すつもりはない。