KORANIKATARU

子らに語る時々日記

遠い昔のことを想起する効用2


競技会に向け練習が山場を迎えているのであろう、スポーツの森のプールは混み混みであった。
当初私が占拠していたはずの端っこの初級コースのレーンに、本気のガタイのスイマーが二人入ってくる。
まるで亀と河童、彼我の速度に開きがありすぎてこのレーンの秩序が維持できない。

隅っこのファミリーコースに誰もいないことを確かめると、亀はすごすごと自らのレーンを明け渡したのであった。

しかし、今度は最後の楽園ファミリーコースにおばさんが合流してきた。
私も遅いが、このおばさんは遅いどころの話ではなく、その様子は「浮かんでいる」と表現する他なく、待てど暮らせど、向こう岸にたどり着く気配がない。

余力は残っていたがもはや泳ぐことを諦めざるを得なかった。


誰かが「さらば涙と言おう」を口笛で吹く。
ロッカーで着替えつつ、昭和の景色の一コマに身を置くようでこれもまた乙であると楽しげな気分となるが、口笛は先へと進まない。
出だしの触りだけを何度も繰り返すだけである。
まるでサブロー・シローの漫才だ。

プールを後にし、クルマを運転しながらサビの部分を一人熱唱する。
胸のつかえが少し取れた。


既に寝入った長男の寝顔を見る。
中学生となっても親からすれば、まだまだ赤ちゃんみたいなものである。
肥沃さを勢い良く増し続けるその内面世界を想像する。

内面に全てが揃う。

野山駆けまわりぼちぼちフィジカル鍛え喜怒哀楽に直面しちょびちょびメンタルも磨いてきた。
あれやこれや滋養たっぷりの風景や場面にも触れてきた。
静か持ちこたえるような時間もたっぷり過ごした。

内面への接続通路の基礎工事は果たせたのではないだろうか。
おそらくはその内面が、君を先導し折に触れ主要な役割をこの先も果たしてゆくことだろう。


人工的に目論まれた強い刺激は子供にとっては時に麻薬劇薬と同じような毒性を発揮する。
添加物だらけのものを食べれば味覚が麻痺するように、強い刺激の娯楽に晒され続けると内面が空洞化する。

見識ある親は、地味目かつ薄味ベースの単調な生活とスパイスとしてのナチュラルな非日常を上手に組み合わせ、やや退屈目加減の日常をプロデュースする。
そこにこそ、知性と耐性という子に不可欠な要素が芽吹く。

代わり映えのしないやや重めに感じる日常と真っ向対峙するのが暮らしの基本である。
あれやこれや楽しみだらけの非日常にまみれすぎると、為す術ない人間が出来上がるだけに違いない。


「このボケ、あのカス」と奇声発する人々についての話しであった。
これは実は伝染する性質のものでもある。
確固たる内面がないと、アホ、ボケの底なしの世界に引きずりこまれてしまうと知っておかねばならない。

アホ、ボケという発声がジュラシック・コードとなって、野卑な獣性が呼応しギャーと目覚めそれが連鎖する。
最初はほんの小さな火だったのに、火勢を増し燃え広がっていく。

昨日の日記で触れた、煩悩が頓挫し発せられる「このボケ、あのカス」と野放しの野生から発せられる「このボケ、あのカス」が両輪となって、放射状に炎が飛び火していくのである。

アホボケの二次被害は留まるところを知らない。
結果、いつまでたっても人は罵り合い、殺し合い、しかも余分に殺し、さすがに殺しはしない場合でも終わりのないすったもんだを繰り広げ、おばちゃんの人だかりがあれば不在の誰かがそこで吊るしあげられるという光景に満ち溢れている。
そして、我々は、いつだって、血祭りにされかねない。

それでも、せめて我々だけは、「明日の人類」の努めとして「このボケ、あのカス」の罠に嵌らないよう注意しようではないか。

なるべく機嫌よく生きよう。
誰がなんと言おうと、恐竜ごっこなどに首突っ込まず、最後まで内面のちゃんとある人間として振る舞おう。


大きく見て4つ、その他様々な勢力が群雄割拠する日本であった。
5世紀から6世紀にかけ、北方の国である「日の本」がこれら諸勢力の価値を統合し太陽信仰の中心であった飛鳥の地に「大きく和する」大和の国を誕生させた。

「日の本」の王が蘇我氏であった。
蘇我氏朝鮮半島や中国を経由せず直接日本海を越え東北地方に渡ってきた。
彼らは本物の遊牧騎馬民族系譜を引く一大勢力であった。

その蘇我氏によって「精神の王」と「現実の王」が分離され、双分的な観念と制度が日本に生まれた。
蘇我氏によって持ち込まれたこの二重性、並存性があったればこそ、内部の異文化を包容し、「相手を殲滅させるまでは追い詰めない」、「対抗勢力の存在を認める」という日本的な価値決定の在り方が生まれた。
遊牧民的な連合国家的思想にこそ日本人の価値観のルーツがある。

栗本慎一郎の書「シリウスの都飛鳥」の記述にプルプル震えるような興奮を覚える。

大昔の話に心躍るのは何故だろう。
蘇我氏という強力な集団がかつて実在した。
その蘇我氏が強固な価値観を日本に根付かせ、それが絶えることなく今もって社会にありあり影響を与えいている。

過去から数珠つなぎ伝わってくるのは何もジュラシック・コードばかりではない。
そのような何か奥深く息づく精神性のようなものも受け継がれるのである。

以前この日記でも書いた鉄人アイスマンと全く同じ遺伝子を有する人がオーストリアで19人見つかったというニュースを思い出す。
たった3700人を調べたうち19人もが、5000年以上昔の鉄人と同じ遺伝子を持っていたのである。

自らの中に蘇我氏の遺伝子があるのかどうか空想と戯れる。
いずれにせよ、ブラッシュアップされ続け、生き抜いてきた実績そのものがこの身に詰まっている。

遠い過去を思えば、自らの内に最強の要素があるはずだと気付くことができる。
数々の武勇伝が、非言語として、この身に宿っているのである。
何と頼もしいことだろう。

過去こそが、我々の最強伝説を説得力もって強く語るのだ。